【書評】映画『峠 最後のサムライ』の原作を読む:司馬遼太郎著『峠』
6月17日より映画『峠 最後のサムライ』が全国公開される。原作は、幕末越後長岡藩の家老河井継之助の壮絶な生涯を描いた司馬遼太郎の長編歴史小説『峠』である。幕末維新ファンにとって、継之助は土方歳三と並ぶ悲劇の二大ヒーローであるだろう。彼はなぜ最後まで官軍に抵抗したのか。司馬作品をひも解いてみる。
映画は、1867年10月二条城で徳川慶喜が大政奉還を告げる場面から始まる。次いで、官軍との戦に備え、長岡で西洋式軍事教練を見守る河井継之助(かわいつぎのすけ)と家臣が登場し、やがて、官軍との関係が決裂にいたる慈眼寺(じげんじ)での談判が行われる。映画では、これが前半のおおきなヤマ場となる。
まず、このあたりの場面を原作に即して紹介してみよう。後述するが、継之助は「武装中立」を掲げている。官軍は、宿敵会津藩の討伐を目指し越後長岡の小千谷まで兵を進めていたが、継之助からの和平会談の申し出に、当初、好意的な態度を示していた。著者はこう記す。
長岡藩は小藩に不適当なほどの重装備をし、洋式火力を整備し、一藩戦陣のきびしさをもって領内を鎮(しず)め、会津に属せず官軍に媚びなかったことが、一つの外交上の威力となって逆に官軍に微笑的態度をとらせたことになるのであろう。官軍幹部は、ここで長岡藩にそむかれるよりも長岡藩を抱きこんだほうがよいと思ったにちがいない。
継之助は、添役となるひとりの藩士と河井家の若党を連れ、官軍本営のある小千谷村へ向かった。長岡からはわずか四里の距離となる。
しかし、ことは継之助の思惑通りには運ばなかった。継之助が官軍本営を訪ねるのと前後して、会津藩の越後派遣軍が官軍を急襲した。会津藩は、長岡藩が官軍に降伏するのではないか、あるいは中立を官軍に認めさせるのではないかと疑っていた。会津藩としては長岡藩を味方に引き入れたい。だから会談をつぶすために、あえてその日に奇襲攻撃をかけたのである。官軍の態度は硬化した。