高知に「土葬の村」発見!「巨大座棺」の謎とは?
もはや日本列島から消滅したと思われていた土葬が、ほんの6年前、奇跡的に残っていたのだ。
しかもそれは、今まで誰も聞いたことがないようなユニークな土葬法だった。
なぜ、どのような方法で土葬が敢行されたのか、遺族と、弔いにかかわった関係者の証言を、2回にわたってリポートする。
後編はこちら『現存する「土葬の村」に、150年前から続く「死者の祭」とは? 』
ところは高知駅から北東に25キロ、険しい渓谷が続く山間部、長岡郡大豊町である。
亡くなったのはK老人という。亡くなる数年前、二人の息子を呼び寄せ、「自分の入る棺桶を作っておきたい。それも土葬用の大きな座棺がありがたい」と告げた。
座棺は、遺体を横たえて納める一般的な寝棺とは形が異なる。同じ直方体でも高さがあり、亡くなった人はこの中に胡坐(あぐら)座りした格好で納められる。
別の日、老人は昵懇にしていた地元石材会社社長にも相談した。「私の入る特別な土葬墓地を作ってほしい。これを機会に先祖代々の土葬墓を整理して、墓じまいもしてもらえないか」と頼んだ。
K老人は、大豊町の岩原という、ふもとにある平地部に暮らしていた。そして、土葬された墓地は、そこから約3キロ離れた大久保という地区の山頂近くにあった。
2016年に土葬されたということは、土葬の実施時期としてはかなり最近のことだ。一昨年、私は日本における最後の土葬地帯を聞き取り調査し、『土葬の村』(講談社現代新書)という本にまとめた。この本で、日本国中から土葬はほとんど消滅したと書いたが、まだ四国の山中に残っていたのだ。
しかもK老人は生前、かねてより周到に自分のお葬式の準備をしていたという。どんなやり方で土葬と墓じまいの両方をやり遂げたのか、話を聞くべく高知へと向かった。
高知駅からJR土讃線を特急でおよそ30分、大豊町の大杉駅で、水先案内人の中西三男さんに会った。Kさんの生前に遺影写真を撮ったカメラマンで、それが縁で今回の土葬・野辺送りの模様も撮影した。この記事の貴重な写真のいくつかは同氏の手による。
中西さんの紹介で、亡くなったK老人の次男の正行さんに会い、生前に座棺を作った経緯について話を聞いた。同氏は、喪主を務めた三男の兄にあたる。
「父は棺桶の材料にこだわって、日本三大杉の一つといわれるやなせ杉を選びました。この銘木で棺を組み立てました。一本の釘も使っていません。この杉材を家督を継いだ三男が探し出し、大きな座棺を完成させました」
特製の巨大座棺は、高さ約1メートル、縦横の長さは約70センチで、厚みが5センチほどある。
これは、かつて土葬でよく用いられた座棺のサイズと比べてかなり大きい。私の調べでは、座棺のサイズに、高さ二尺三寸(約70センチ)、縦横の長さ一尺八寸(約54センチ)というのがあった。それぞれの寸法は地蔵菩薩の縁日の二十三日、観音菩薩の縁日の十八日にちなんでいる。
しかし、これだとかなり狭く、遺体を納めるのにたいへん苦労する。実際に、このサイズの座棺に亡くなった父を納めたことのある他県の経験者に聞いたところ、「父の背骨が砕けるかと思ったほど、きつく背中を押して納棺した」という。
これに比べると、K老人の座棺はかなり大きい。
「父は以前から、窮屈な座棺には入りたくないと言っていました。父は自分の母が亡くなったときも、ゆったり入れる大きな座棺を設計していました」と次男氏は言う。
ちなみに、今日よく使う寝棺のサイズは長さ約1.8メートル。昨今の日本人の身長を考えると、現状のサイズでは狭くなってきているが、火葬炉の大きさの関係上、寝棺のサイズは制限を受ける。その点、土葬の場合、サイズを自由に選べると言える。
特製座棺は、K老人が亡くなる約3年前に完成し、自宅に運び込まれた。座棺の蓋を開け棺の中をのぞいたとき、分厚い棺のふちに置いた老人の両手が小刻みにふるえたという。自分が死後入る棺を目の当たりにして、どんな思いがかすめたろうか。
それから亡くなるまでの3年間、老人は自宅で巨大座棺とともに暮らした。生前から長持ちのような箱を準備し、ふだんは長持ちとして利用し死んだときに棺桶として使う例は、たまに他県の弔いの事例でも見出せる。生前に棺桶を作り自分が死んだことにすると、長生きできるという言い伝えもある。いったん死んだことにして生きなおすという意味で、これを「擬死再生の儀礼」という。