千田嘉博のお城探偵 山覆い尽くす会津の名城 福島県・向羽黒山城
1189(文治5)年に源頼朝が奥州藤原氏を攻めた奥州合戦で、神奈川県を基盤にした三浦氏は戦功を上げてこの地を得た。三浦氏はその後、蘆名(あしな)氏と名乗って勢力を拡大した。その蘆名氏がもともと居城にしたのは、現在の会津若松城の前身である黒川城であった。しかし1561(永禄4)年から蘆名盛氏(もりうじ)が向羽黒山城の築城を開始した。黒川城は当時、館城であったと推測され、盛氏は新たな拠点として山城を整備した。
戦国時代になると各地の大名は政治の拠点を一斉に山城へと移転していった。能登国(石川県能登地方)の畠山氏は、七尾市の能登府中の館城から1523(大永3)年頃に山城の七尾城に本拠を移した。近江国(滋賀県)の六角氏も1530年代に本拠を近江八幡市にある山城の観音寺城に移転した。こうした変化は列島で同時進行で起きていて、東北では福島県桑折(こおり)町を基盤にした伊達政宗の曽祖父・伊達稙宗(たねむね)が、1532(天文元)年頃に山城の桑折西山城を本拠にした。
室町時代から武士たちは、通常は平地の館で生活と政治を行い、軍事的危機には館に隣接して設けた山上の砦を用いた。館と砦の併用を根小屋式(根古屋式)と呼ぶ。戦国時代になって軍事的要請が高まると、山城が軍事機能に加えて生活や政治の拠点機能も統合した「戦国期拠点城郭」が成立した。蘆名盛氏の向羽黒山城の築城も、こうした戦国期の政治・社会情勢に対応したニュータイプの城だった。
ただし根小屋式から戦国期拠点城郭に一気に移行した訳ではなかった。公権力を象徴した館を残したり、山城内で大名が暮らした私的な山上御殿とは別に山麓に公的な御殿を併設したりした段階があった。そして1576(天正4)年から築城をはじめた織田信長の安土城で、山城の中枢部に大名の公・私の御殿群を集約した近世的な城郭構造が成立した。
向羽黒山城も城の麓近くに「盛氏屋敷」と呼ぶ屋敷跡があり、築城時はここが蘆名氏の公的御殿であった可能性がある。その後、盛氏は家督を譲って城内で暮らしたと伝えられるので、「盛氏屋敷」は時期によって使い方を変えたのだろう。
さて向羽黒山城のすごさは、全山を覆い尽くして壮大な戦国の山城跡が残っていることにある。しかも会津美里町が環境整備をしてくれていて、山中に残る屋敷や堀・土跡などの遺構はとても観察しやすい。とりわけ驚くのはこの山城が曲輪群を囲って防衛線を構成した横堀を3重に備えた点にある。横堀と組み合わせて要所に設けた強固な出入り口・枡形も見事で、まさに土の名城である。独自性の高い枡形の設計から考えて、現在確認できる向羽黒山城のかたちは、伊達政宗と激突した蘆名氏末期に完成したとみてよい。(城郭考古学者)
■向羽黒山城 戦国期に、会津を治めた蘆名盛氏が築城した天然の要塞。1589(天正17)年、蘆名氏は伊達政宗に敗れて滅亡するが、城は政宗、蒲生(がもう)氏郷、上杉景勝らが改修し使用した。城跡には空堀や土塁などの遺構が数多く残され、山の中腹まで車でアクセスでき駐車場も備える。平成13年、国指定史跡となる。一帯は白鳳山公園として親しまれている。