元スター芸人の夫は、なぜ「外の世界で生きられなかった」のか?話題作『サーカスの子』試し読み!
幼少期をサーカスで過ごした作家・稲泉連氏の自伝的ノンフィクション『サーカスの子』が話題だ。1970年代後半から80年代に人気絶頂を迎えたキグレサーカスは、家族ぐるみで全国を渡り歩く「共同体」だった。約40年ぶりに、かつて共に暮らした芸人たちを訪ねた著者は、華やかなショーの舞台裏と、彼らの波乱万丈の人生を描いていく。当時、サーカスの女性芸人として活躍していた「井上美一さん」が語ったのは…。(本記事は『サーカスの子』の一部を抜粋し、WEB用に再編集したものです。)
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美一さんがキグレサーカスにいたのは、一九七八年から一九九二年までの十四年間ということだった。入団後、すぐに駒一さんという若い芸人と結婚した彼女は、自身も一輪車や綱渡りなどの芸を覚え、丸盆に立つようになった。僕が母と一緒にキグレサーカスに来たときは、中堅の女性芸人として誰もが一目置く存在だった。
二人の子供を産んだ彼女は、僕ら親子がいなくなった数年後、長男が小学校に入学するタイミングでサーカスを去った。その後はしばらく弘前で母親の仕事を手伝ってから、サーカス時代の伝手で福島県二本松市に本社のある東北サファリパークに就職した。夫の駒一さんもその一部門である「移動動物園」で働き始めたそうだ。
「その駒一がね、今年の五月に亡くなったの」
と、彼女は言った。
「もう別れてから二十年くらい会っていなかった。それがある日突然、子供宛てに(神奈川県の)相模原市の役所から手紙が来て、遺骨の引き取りをしてもらえないか、っていうの。生活保護を受けていたから、息子の名前が分かったみたいでね」
美一さんと駒一さんの間には二人の息子がいる。キグレサーカスを出た後、紆余曲折の末に「移動動物園」で働き始めた駒一さんは、職場で中国雑技団出身の若い女に出会った。駒一さんとその女性の間に子供ができ、美一さんはすったもんだの話し合いの末に彼と別れることになった。
「でも、その女の子は日本の国籍が目的だったのね。少なくとも子供がいれば、養育のために二十年は日本にいられる。結局、駒一は捨てられて、挙句の果ては生活保護を受けて孤独死をして、遺骨の引き取りを元妻との子供にも断られて……。それでうちに借金まで付けて帰ってきたんだからねェ」
駒一さんの遺骨は相模原市の役所から、着払いのゆうパックで送られてきたという。東京では新型コロナによる緊急事態宣言が出ていた時期、「今はこのご時世でもあるので、来ていただく必要はありません」と担当者から電話で伝えられた。