櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:愛しき石よ
玄関先に並べられていたのは、様々な表情を浮かべた石の彫刻で、文字が刻まれたものから、大きな口を開けて何かを訴えるような顔をしたものまである。作者は、この家に住んでいた小八重政弘(こやえ・まさひろ)さんで、「住んでいた」という言葉の通り、現在は道路を挟んだ新居に家族と暮らしている。小八重さんの案内で3階の居室へお邪魔すると、梅干しのような真っ赤な造形をしたオブジェや金色に輝く大黒天、そして本物と間違えてしまう小銭入れなど、とても石を加工したとは思えないほどのクオリティの高い作品が至るところに陳列されている。
「外へ置いているのは、持って行かれても平気なやつで、あいつらは外に出してる方が輝いているんだよね。ここに置いてるのは全部一軍で、なかには枕元に置いて眺めてるものもありますよ」。
小八重さんは、長崎県北松浦郡小佐々町(現在の長崎県佐世保市)で3人きょうだいの次男として生まれた。炭鉱夫として働いていた父親は、石炭の粉塵による吸入が原因で肺に水が溜まり働けなくなったため、小八重さんが小学校1年生のとき、家族で母の実家がある鹿児島に転居した。2年ほど経った頃、父親が溶接の免許を持っていたこともあり、造船業が盛んな静岡へやって来た。小さい頃は、天真爛漫な子どもだったという小八重さんだが、小学校5年生での出来事を機に、事態は思わぬ方向へ転がっていく。
小八重さんによれば、母親が夜の仕事をしていた店に、ある夜、担任の先生が飲みに来て、「息子の面倒を見てるんだから飲み代はタダにしろ」と訴えたという。母親が拒否したところ、翌日から小八重さんは突然に廊下へ立たされて一番端のクラスまで聞こえるくらいの音で平手打ちをされるなど、先生のイジメの標的になってしまったようだ。不当な暴力を受けることに耐えきれず、小八重さんは次第に学校を休むようになっていく。それでも「心配をかけたくない」と決して両親に告げることはなかったという。
息子の異変に気づいた母親が担任教師を問い詰めたところ、その教師はあろうことか「お前みたいな売春婦の子供は学校へ行かなくていい」と暴言を吐き、校長が見ている前で母親に殴りかかった。この事件が決定打となり、担任教師は次年度より他校へ異動を命じられたが、教育委員会が問題を処理している2週間ほどの間、小八重さんは校内にあった特別支援学級へ席を置くことになった。
「今だったら考えられないんだけど、当時は障害のある子だけじゃなくて、差別のために普通学級に在籍させてもらえない朝鮮人の子もいたんです。必然的にそういう子たちと仲良くなって、その期間が自分にとってはすごく居心地が良かったんですよね」と語る。ところが、事件がひと段落してクラスへ戻ると、今度は「暴力を振るわないから良いだろう」とその担任から無視をされるようになった。
「本当は『こやえ』じゃなくて、『こばえ』という読み方だったんです。教師から当時『小蝿が飛んでるぞ』とずいぶん揶揄されたから、息子が生まれる際に『こやえ』という読み方に改称したんです。このときの辛い経験が、その後の人生に影までは落としていないけど、こういう石の中にも現れているんじゃないかな。感情を外に出せない悶々とした思いをずっと抱いてたけど、この石は自分に代わって自由な思いを発出しているんです。だから、叫んでいるように見えるのかも知れませんね」。
そんな小八重さんが初めて石に魅了されたのは、小学校6年生のときのこと。月に1度、母親の借金返済へ同行する道すがら、石屋にある錬磨された石の綺麗さに1
時間ほど見惚れていたことを鮮明に覚えているという。
中学時代は、教育委員会からの配慮もあり、平和に過ごすことができた。ただ、かつて小学校の特別支援学級に在籍していた同級生たちとはお互い意識して言葉を交わすことはできなかったという。「場面緘黙でみんなの前では話すことのできない友だちも、僕の前だと饒舌になっていました」と当時を振り返る。人に安心感を与える空気感を小八重さんはまとっていたのだろうか。
高校は2年で中退し、タレントになることを目指して上京した。養成所へ通い、小さな劇団へ所属して演劇に取り組んだが、どんなに頑張っても、手のアップだけしか使ってもらえなかったり、劇団内の人間関係で悩んだりしたため、20歳頃に静岡へ帰郷。その後は、同級生から誘われてヒッチハイクで向かった沖縄で5年ほど演劇に携わったあと、静岡へ再び戻ってきたのは26歳ごろのことだ。しばらくアルバイトをしながら演劇を続けていたが、知人からの紹介で30歳からは清水区にある石材店へ就職し、工場長として66歳まで勤め上げた。
当初、石を磨く仕事に従事していた小八重さんは、作業の練習を兼ねて、会社で使い物にならない石を自主的に磨くようになった。最初の頃は、長方形などの形が定まった石を磨いていたが、やがてそれだけでは飽き足らなくなり、自らの修練のために凹凸のある自然石を拾い集めるようになった。そんな折、自作した石のコースターを社長から誉められたことを機に、石で色々なものを制作するようになったようだ。そして、40歳のときには、社内で墓石に文字を入れる字彫り担当を命じられることになる。
「庵治石っていう高級石材を使っていたこともあって、字彫りって一発勝負で失敗ができないんだよね。ひとつの文字でも、浅く彫ったり深く彫ったりとメリハリをつけなきゃいけないから、練習になるなと思って石に顔を彫るようになったわけ。でも、やっていくうちに取り憑かれるように次々と彫りたくなっちゃってね。会社の昼休みにサンドブラストを使って顔なんかを彫って緊張を解したあとに、墓石の字彫りに取り掛かるわけ。エアーの出具合も良い感じに馴染んでくるんだけど、あんまりサンドブラストを使いすぎるもんだから『この頃、電気代が掛かるようになった』って会社から文句言われることもあったね」。
出勤前などにはズタ袋を抱えてバイクで浜へ石を拾いに行き、昼休みに石についた泥を会社で洗い落とすことが小八重さんの日課となり、他の従業員から「また石を拾っているよ」と揶揄されることも多かったようだ。年々その技術は向上していったが、驚くことに下書きは一切しないという。
「次第に拾ってきた石が『顔を彫ってくれ』と言っているような気がしてくるんだよね。石を拾って、その石のことばかり考えるようになったときは『これは拾っちゃいけない石なんだ』と思って海に戻しているわけ。でも、半年ほど所持していて、その石が『もう、どうにでもしてくれ』って訴えているように感じたら、まさに彫り時というか、そのあと良い顔に仕上がることが多いんだよね。こいつらは誰にも貰われなかったわけだから、例えるなら俺と石のマリアージュなわけ」。
退職するまでの間、小八重さんは仕事の合間に3000点に及ぶ作品をつくり続けた。「できたものを持って帰ってたんだけど、女房からは『重さで畳が抜ける』と怒られてたけどね」と笑う。寄贈したことはあるが、販売目的で制作したわけではないから、これまで売ったこともないという。
そんな小八重さんは、61歳のときに初期の胃癌と診断され、胃を3分の2ほど切除。現在は定期的に人工透析治療を受けており、サンドブラストも手元にないため、退職してから創作に取り組むことはないようだ。
「毎日のように会社で石を彫ったり磨いたりしている姿を夢に見るんですよ。知らない従業員から『変なおじさんが会社に来てます』と言われて目覚めちゃうんですけどね。でも、振り返ると、こうして透析してることもあるけど、良い人生だったと思いますよ。やれないことも多いけど、その分、人生にやれることも多いなと気づきました。まだこうして階段だって昇れるし、朝になれば目を開けることだってできる。こいつらを眺めていると、とくに生きてるってことを実感するんですよ。つくったときの感情や時代背景を思い出しますね。いまここにいるこいつらは残るして残ったやつらで、どこかの家に行ったやつは、きっとそこで可愛がられたりしてるだろうから」。
「こいつら、あいつら」という小八重さんの発言の端々からは、石に対する愛着を窺い知ることができる。きっと我が子というより、自分自身の分身のような存在なのだろう。そして、僕らが想像している以上に、長い時間をかけて石に愛情を注いできた小八重さんを羨ましくも感じてしまう。小学生のときの教師から受けたイジメ体験だけでなく、もしかするとこれまでの人生においても、不遇な扱いを受けたことがあったのかも知れない。そうしたもの言えぬ思いを代弁する存在が、小八重さんにとっては「石」なのだろう。「みんな気持ち悪いっていうんだけど、俺にとっては可愛くて仕方ないんだよね」と目尻を細めて見つめる視線は、優しさにあふれていた。