櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:人生を捧げた創作
玄関を開けて案内していただいた居間には、これまで制作したカツオやマグロの木彫が陳列されている。本物そっくりの造形美だけでなく、キラキラと表面が銀色に輝きを放つ光沢美は、まるで魚たちが部屋を遊泳しているかのようだ。作者で現在86歳の見原英男(みはら・ひでお)さんは、70歳で仕事を退職したことを機にこうした作品の制作を始めた。
見原さんは、1936年に静岡県志太郡小川村(現在の焼津市)で4人きょうだいの長男として生まれた。漁師だった父親は、昭和初期に隆盛を誇った焼津の南興水産である皇道産業焼津践団に所属し、フィリピンでカツオを獲っていたが、日本軍がガダルカナル島で大敗北を喫し戦況が悪化してくると現地徴用され、物資の補給などの任務に当たっていたようだ。「1944年に機銃に撃たれて父親が戦死したあとは、母親ひとりで子供3人を育てることになり、いまじゃ想像もできないような生活環境になりましたね」と当時を振り返る。
幼少の頃は戦後の混乱期ということもあり、配給は遅配や欠配が続き、非合法な買い出しや闇市で、法外な値段で生活必需品を入手するほかない時代だった。見原さんも食べ物を探したり海で魚を釣って食事の足しにしたりという日々を送ったようだ。家計を支えるため、中学を卒業すると父の後を継ぐように親戚を頼って漁師として働き始めた。
「最初は餌運びやコック長の下働きなどをしてたんだけど、同じ船の先輩たちはみんな兵隊から帰還した人たちで、下っ端の僕らは『動物の真似をしろ』とか『マストに登ってカラスの鳴き真似をしろ』などずいぶんからかわれたね。船だから逃げるところもなかったしね、サバ船から始まってカツオ船、マグロ船とすべての船を経験したんだけどね」。
見原さんによれば、当時はサラリーマンの倍ほどの給料を貰っていたが、年々漁獲量が減少していくにつれて次第に手当ても下がっていったという。30歳で結婚したことを機に、経済的な安定を求めて漁師の仕事を辞め、知人の紹介で市内の水産加工会社に転職を果たす。3年ほど経ったとき、大手加工食品メーカーなどから原料を冷蔵室で保管してほしいという声が多くあがったことを機に、勤めていた会社がそれまでの水産加工業から冷蔵庫業へと業務形態を大きく転換することになり、見原さんもそこに携わることになったようだ。
「当時は機械が手動だったんで、土日は機械の当直をやるのよ。みんながやりたくないことも進んでやってたから、1年のうちで元旦しか休みがなかったんだけどね。マグロやカツオを保管する冷蔵庫の仕事を10年ほどやってたら、今度は静岡市の食品加工会社から『工場をつくりたい』と相談を受けたわけ。うちの会社が不動産業もやってたから、空いていた倉庫を貸し出して、今度はその工場で当時売れ始めていたカツオのたたきを扱うようになったわけ。結局70歳まで働いたんだけど、これまでの人生を振り返ったとき、船でカツオを釣り、冷蔵庫でカツオを預かり、最後にはカツオのたたきの商品をつくるなど、何だかカツオには縁があるなと思っていたわけ。定年間際になったときに、会社の人から『退職後に何するの』と聞かれて、『俺はカツオに縁があるからな、カツオの木彫りでもつくってな、余生を過ごすよ』と冗談半分で言ったら、社員から退職祝いに彫刻刀をプレゼントされちゃったのよ」。
彫刻刀を手にしたことで、見原さんは一念発起。近所で木彫をしていた知人から材料の調達方法などの情報を集めながら、独学で制作を始めた。最初につくったのは、5匹のカツオが群れになった作品で、台座には船に乗っていた頃につくっていた短歌を刻んだ。
見原さんによれば、鉛筆で下描きをして1本の木を削っていくが、これまで多くの魚を扱ってきただけあって、何かを手本にすることはまったくないという。自らの記憶を手繰り寄せ、形を再現していく。横ビレと背ビレは削った端材を使って加工し、ボンドで取り付けていくのだが、できあがった作品はどれも魚の立体的な膨らみが見事に再現されている。
「小さいのであれば1週間ほどでできちゃうのよ。アクリル絵具で塗ってくんだけど、乾いちゃ塗ってくってことを繰り返さないと本物に近い光沢は出ないからね。最初につくった作品なんかは人にあげたり勤務していた会社に寄贈したりしたんだけど、いまじゃ当時の稚拙な技術が恥ずかしくてね。回収したいくらいだよ」。
土台となる木台を片足で押さえ、その上に材料を置いて削っていくのだが、木台についた無数の傷が制作に向き合ってきた年月を感じさせる。当初は機械を使って削ることも試みたが、「ここは居間ってこともあって、とにかく音と粉塵が凄くってやめたのよ」と笑う。これまでマグロやカツオ、そしてカジキマグロなどの身近な存在だった魚たちを200体ほど制作してきた。
「最初の頃は、朝ごはん食べて新聞読んだあと、時間あればつくっていたね。座ってばかりいると腰が痛くなるんで、最近じゃ、だんだんやる時間が少なくなっているんだけど。初めの頃は、布団に入っても考えていたこともあるしね。年月が経って、身体の膨らみの出し方がようやくわかるようになってきたわけ。でも、その昔、カツオを一本釣りして両手で抱えたときの感触はまだ再現できていない。あの生きていた感触をいつか出してみたいのよ」。
まだまだ夢半ばといったところなのだろう。漁師をしていたときも、当直をしながら竹で糸巻きを自作していたというから、見原さんにとって作品づくりは生活の一部だったようだ。「やるだけやってみるかと始めたら、面白くなって続いている」と見原さんは謙遜するが、その命ある形態を再現しようと苦心する姿は、たんなる作品制作を超えて胸に迫ってくるものがある。マグロやカツオに人生を捧げてきた見原さんにとって、いわば集大成とでもいうべき創作表現は、自身が歩んできた轍を一歩一歩確認する行為のようにも思えてくる。ある感触を徹底的に再現したいという衝動が、今日も見原さんを創作へと向かわせる。
帰り際、食べ物の趣味について尋ねたところ、「カツオのたたきをお客さんが来るたびに試食してたから、もう食べ飽きちゃってね。魚はあまり食べなくって、いまは麺が一番好きだね」と笑って教えてくれた。