櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:豊かな日常のなかで
Yamanami」の名で知られている。「よう頑張るなぁ」「日本一やなぁ」と自らを褒め称えながら何十万体という人形をつくり続ける人や皆の輪から離れた場所で寝転びながら絵を描く人、そして大好きな袋ラーメンを25年以上に渡って触り続けている人など、やまなみ工房を利用する障害のある人たちの表現の多彩さは枚挙にいとまがない。そうしたなかで一番大きな紙に絵を描いているのが、今年80歳になる井上優(いのうえ・まさる)さんだ。
やまなみ工房内でも最年長という井上さんは、床に大きな紙を広げて四つん這いになりながら、10Bという濃い鉛筆を使って絵を描き続けている。一見すると単純な造形に見えるが、黒光りするような漆黒の画面に描かれた温和な表情の人物画が見るものの心を和ませてくれる。多くの人物は服の中まで黒く塗り込まれているため、まるで人物が背景と同化して浮かび上がっているような不思議な感覚さえ覚えてしまう。
「井上さん、間違えて体にも顔を描いてるんちゃうか。あの体には眉毛が描いてあるで」。
やまなみ工房の施設長である山下完和さんの声かけに、井上さんは顔をくしゃっとして笑みを浮かべる。1943年に滋賀県甲賀郡多羅尾村(現在の甲賀市信楽町多羅尾)という小さな集落で、5人きょうだいの長男として生まれた井上さんは、中学校卒業後は山を削って道などをつくる土木作業員として長年働いてきた。
「その頃は障害者雇用も無い時代だったから、不況の煽りを一番に受けたんは井上さんのような障害のある人たちで、どんどん解雇されていって、井上さんもそのひとりやったんですわ」。
山下さんの話によれば、行き場をなくした井上さんが、やまなみ工房へやってきたのは、55歳のときのこと。1986年に通所者3名で無認可の共同作業所としてスタートしたやまなみ工房は、1997年夏に町が福祉ゾーンとして提供した現在の土地に移転したばかりで、当時はまだアスファルトも整備されておらず、敷地のあちこちで砂利が山積みになっている状態だったようだ。
「そんなときに、腕まくりした井上さんが進んで砂利を運んで道路を整備してくれて」と山下さんは当時を振り返る。その後、甲南庁舎にやまなみ工房のカフェ「喫茶かすたねっと」ができることになり、やりたいことを尋ねたところ、井上さんは「喫茶店やな」と呟いた。夢を叶え、そこで店員として15年ほど働いていたが、店舗は2013年3月末をもって閉店。「次は何の仕事をしたいですか」と聞かれることもなく、「ゆっくりしたらどう」という周囲の配慮もあり、70歳から画材が揃ったアトリエのメンバーに加わることになったというわけだ。
周りの人たちが絵を描いていたこともあり、井上さんも「絵でも描いてみよう」という気になったのかも知れない。A4サイズの紙に、窓から見えるやまなみ工房の建物を描いたものの、小さな紙には収まらなかった。続けて描いた人物画も、手や足を描ききることができない。必然的にスタッフが準備する紙は大きくなり、ついに現在取り組んでいる大作となった。10メートルのロール紙をスタッフが5分割に裁断していくのだが、「もう大きな紙じゃないとかなわん」と笑う。
「初めは墨汁と割り箸を使って描いてはったんです。当初から人物を描いても、その周囲を塗りつぶすというような描き方でしたね。墨汁と割り箸の往復が大変そうだったので、10Bの鉛筆を渡したところ、『これがええわ』と愛用されるようになりました」。
側で見守ってきたやまなみ工房の棡葉朋子さんは、そう教えてくれた。紙が汚れないように新聞紙を敷いたりカッターナイフで鉛筆を削ったりするのも、すべて井上さんが自主的にやるのだという。工房内にある雑誌や図鑑から好みのモチーフを吟味して選んだら、それを元に描き始めていく。余白があると、そこに別のイメージを付け足していくこともあるようだ。井上さん自身もどこを塗って良いのか自分でもわからなくなることがあるようで、手の指を塗りつぶさないようにと周りに描いた丸い輪郭線が水かきのようにも見えるなど、そのユニークなエピソードには事欠かない。
「午前1時間、午後2時間とみっちり描いています。1枚描くのに、2週間ほどかかりますね。ずっと同じ姿勢なので、腰が痛くならないのか心配になることもあって、無理なく制作を続けることができるように、椅子に座って意図的に小さな紙に描いてもらうこともありますね」。
棡葉さんによれば、この10年間で描いてきた絵は、200枚に及ぶという。休むことなく続けられる創作に、1日に1本の鉛筆を消費してしまうようだ。「途中でやめようと思ったことは」という僕の問いかけに、井上さんは「ないわ、トイレだけやわ」と教えてくれた。山下さんは、「展覧会に出展したり作品が評価を受けたりすることには、ほとんど興味がない」と語る。
「印象的やったんが、横浜で展覧会をしたときに井上さんを連れて初めて滋賀から出たんですね。そしたら井上さんはそこに展示してあるのを少し見ただけで、すぐにその場で別の新しい紙に描こうとしてましたから」。
描き終えたものを見直すことがないため、一見すると作品への執着はないように思える。それでは、いったい井上さんは何のために描いているのだろうか。
「残ってく」。
僕がどんなに質問の仕方を変えても、井上さんの答えは変わらない。煙草や酒を嗜むこともなく、散財するような趣味もない。共同生活を送るケアホームでは絵を描くこともないのだという。休憩をすることもなく、やまなみ工房でただ愚直に描き続けることが、井上さんにとっては長年続けてきた「仕事」のようなものなのだろう。やまなみ工房やケアホームという見知った顔に囲まれた小さな生活圏の中で、井上さんは暮らしている。そうした環境下では「展覧会に出したい」とか「作品を売りたい」という思いよりも、ただ毎日絵を描くという日々の営みこそが、井上さんにとっての生き甲斐なのかもしれない。鉛筆の削りかすや短くて使えなくなった鉛筆など、その全てを井上さんは大事に保管している。すべては、自分が「仕事」をしてきた証なのだろう。
それにしても、描き終えたものが日増しに増えていったとき、周囲の人たちはどんなに驚いたことだろう。10枚、20枚、100枚、そしていまや200枚に及ぼうとしているその作品群は、井上さんがいうところの「残る」という次元を遥かに超えて、僕らを驚かせてくれる。それは芸術性の高さ云々の話ではない。年齢など関係なく、継続することの大切さを井上さんの背中は語っているのだ。そして、こうした作品が生み出されていくためには、やまなみ工房という場の存在は欠かすことができない。
僕がやまなみ工房を訪れるのは、もう何度目だろうか。毎回訪問する度に、山下さんをはじめとしたスタッフの人たちから大変な歓待を受けるのだが、こうしたスタッフの姿勢は、僕のような見学者に対してだけでなく、やまなみ工房を利用する障害のある人たちに対しても何ら変わることはない。障害の有無を超えて、この誰に対しても相手に心から敬意を払う真摯な態度は、やまなみ工房の水脈として流れ続けている。作品がどんなに世界から評価を受けようとも、ここがやまなみ工房の変わらない部分なのだ。「障害のある人」ではなく、「井上優さん」として個を尊重し、その人が自分を表現することができる環境を整えること。こうした土壌があってこそ、世界から称賛される作品が次々と生まれているし、年間を通じて多くの見学者がこの地に引き寄せられていくのだ。驚くべきことに、やまなみ工房には、スタッフも含めてこれまで美術を専門的に学んだ者はほとんどいない。ただ、自分の存在を高らかに主張できる場があることで、人は変わることができる。そんなことを僕は井上さんの絵から、そしてやまなみ工房の取り組みから身をもって学んでいる。
「おおきに」。片手を挙げて挨拶を済ませた井上さんは、またすぐに鉛筆を握って漆黒の画面へと吸い込まれていく。こんな豊かな日常の中で、これからどんな作品が生まれてくるのだろうか。井上さん、どうかいつまでもお元気で。