誇り高き坂東武者・畠山重忠の素顔に迫る
畠山重忠は戦前、修身書(道徳を説く教科書)で「坂東武者の鑑(かがみ)」とうたわれた誠実かつ清廉な人物だ。当時はむろん脚色もあったろう。だが、歴史研究が進んだ令和においても、忠義に篤い文武両道の人物像は色褪せることなく維持され続けている。放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、とりわけ人気の高いキャラクターだ。
重忠は1205(元久2)年、鎌倉幕府執権・北条時政に討たれ非業の死をとげた、いわば 歴史の “負け組”に属する。
だが、筆者が知る限り、相次いで刊行された鎌倉関連本で重忠をあしざまに書く研究者はいない。それどころか高く評する識者が多く、その中身も決して判官びいきといえない。
こうした見解は、歴史学者の清水亮氏(埼玉大学教育学部准教授)が自著『中世武士 畠山重忠』(吉川弘文館)で述べた次の意見に代表される。
「重忠が廉直な人物であったことは私も否定しない。(中略)家格・勢力ともにトップクラスの東国御家人である」
廉直――私欲がなく曲がったことをしない。また、そうした姿勢を貫き通せたのは、格式の高い家柄で、かつ強大な武力を備えていたからだと分析している。
そこで、まず畠山とはどういう氏族だったかを、ひも解いてみよう。
畠山氏は坂東平氏の祖といわれる平良文(たいらのよしふみ)の子孫だ。良文の父・高望(たかもち)は桓武天皇のひ孫にあたり、平姓を下賜されて臣籍降下。未墾の地だった関東に下向して土着し、勢力基盤を固めた。つまり、畠山氏は桓武平氏の血を引いた坂東の名門だ。
その後、良文の孫の平将恒(たいらのまさつね)が、武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)を拠点に、「秩父党」という強大な武士団を形成するのである。
秩父党はさらに秩父氏、河越氏、小山田氏、江戸氏、稲毛氏などに枝分かれした。畠山氏もその一つで、重忠の父である重能(しげよし)の代に秩父党の惣領(そうりょう)を狙える実力者となった。紛れもなく武蔵国の有力者の1人だった。
とはいえ、清水亮氏の著書にある通り、源頼朝が創立した幕府においては、「トップクラス」の御家人ではあっても、決して「トップ」だったわけではない。頼朝が反平家の旗印のもと挙兵した1180(治承4)年当時、父・重能は京都にいて、平家に帰属していたからだ。
武蔵国にいた重忠も父に従い、頼朝に参陣するのを見送った。そればかりか頼朝に味方した三浦氏の主要人物・義明(三浦義村の祖父)を討ちとっている。直後に頼朝に恭順し許されたものの、三浦と畠山の遺恨は残った。
重忠は源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱(1180~1185)や、奥州藤原氏征伐(1189)で戦功をあげていく。順調な出世に見える。だが、「建前では頼朝に重用されながら、ある距離が置かれている」(『中世武士 畠山重忠』にある須藤敬氏の指摘)という。格式は高いが、鎌倉幕府の「宿老」といえる立場ではなかったのである。やはり挙兵当初の敵対行動が尾を引いたのだろう。
一方で畠山に接近する鎌倉御家人もいた。北条だ。
北条時政は娘と重忠の縁組を成立させ、関係強化を進めた。
重忠を取り巻く状況は複雑だった。