日本の写真はいかに「前衛」を受け継いできたのか。千葉市美で瀧口修造、阿部展也、大辻清司、牛腸茂雄の足跡をたどる展覧会
本展は、瀧口修造(1903~1979)、阿部展也(1913~71)、大辻清司(1923~2001)、牛腸茂雄(1946~1983)という、それぞれ交流や師弟関係を持つ4人の活動をつなぎ合わせ、そこに共通して受け継がれた「前衛」写真の精神を見出すことで戦後写真史を追うものだ。2023年は瀧口が生誕120年、阿部が生誕110年、大辻が生誕100年、そして牛腸が没後40年という節目の年であり、これも本展開催の動機のひとつとなっている。
第1章「1930~40年代 瀧口修造と阿部展也 前衛写真の台頭と衰退」では、瀧口と阿部が出会うことで、日本の写真における「前衛」がいかに変化したのかを検証する。
瀧口は1903年富山県生まれの詩人・美術評論家で、早くからシュルレアリスムの動向に注目してアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』の翻訳を行ったことでも知られる。自らが写真を撮影する作家ではなかったが、「前衛写真協会」を組織し理論面をサポートするなど、日本の写真表現において重要な役割を果たした。
いっぽうの阿部は1913年新潟県生まれで、独学で絵画を学び、独立展等に作品を出品。戦後も前衛的な作風をもって国際展などで広く活躍した画家だ。阿部は瀧口とともに「前衛写真協会」の立ち上げに参加している。
日本におけるシュルレアリスムの紹介に大きく貢献した瀧口だが、1930年代より、広く写真についての評論活動も行っていた。瀧口の理論のもとでシュルレアリスムの影響を受けた写真は「前衛写真」と呼ばれ、アマチュア写真家を中心に全国に広がっていった。
第1章の冒頭で紹介されているウジェーヌ・アジェは、こうした国内の前衛写真家に強く影響を与えた写真家のひとりだ。詩的な演出や技巧が優先される当時の日本の超現実的写真に批判的だった瀧口は、写真の本質にある「記録性」や「オブジェ」を重視し、人気のないパリを撮り続けたアジェをシュルレアリスム精神の発露として高く評価し紹介した。
こうした瀧口の思想に共鳴して作品を残したのが阿部だ。キュビスムやシュルレアリスムの影響を受けた絵画作品を手がけていた阿部は、1936年ごろより写真を撮り始める。会場では、瀧口の詩と阿部の画による詩画集『妖精の距離』や、日常的なもののなかにシュルレアリスム的なイメージを見出した阿部の写真作品が並ぶ。
1938年に瀧口は阿部らと「前衛写真協会」を結成する。瀧口が標榜する「前衛写真」とは、あくまで日常のリアリスティックな目線において見出す、非日常的な世界の表現だったといえる。本展のタイトルにある「なんでもないもの」とは、まさにこの瀧口の目指した前衛写真の精神であり、その精神がどのように引き継がれ変容していったのかが、本展の核心となっている。
第2章「1950~1970年代 大辻清司 前衛写真の復活と転調」では、前衛写真協会から強い影響を受けた写真家・大辻清司に着目している。
大辻は1923年東京都生まれ。40年に近所の古本屋で見つけた写真雑誌『フォトタイムス』に掲載されていた瀧口の写真論や前衛写真協会の作品群に衝撃を受け、写真家を志した。戦後、大辻は瀧口や阿部との交流を経て、瀧口を理論的支柱とする領域横断的な芸術家グループ「実験工房」や、瀧口や阿部が支援した「グラフィック集団」の設立にも携わる。
会場に展示された大辻の写真からは瀧口や阿部の影響がうかがえるが、70年代になると大辻はこの思想をさらに研ぎ澄ませていき、「なんでもない写真」という概念にたどり着く。これは『アサヒカメラ』での大辻の連載「大辻清司実験室」で発表された6枚組の写真の名称でもあった。何気ない町並みを写した6枚のスナップは、それぞれが緊密に関係しているのか、あるいはただ純粋に無意識にシャッターを切ったものなのか判別し難い。しかし、この「なんでもなさ」は、瀧口や阿部が目指した「前衛写真」の日常の記録性や、そこから立ち上がる不可思議さなどを受け継ぎながらたどり着いた、大辻の回答と言えるだろう。
最後となる第3章「1960~1980年代 牛腸茂雄 前衛写真のゆくえ」では、写真家・牛腸茂雄の作品を中心に取り上げている。
牛腸は1946年新潟県生まれで、65年に桑沢デザイン研究所に入学する。ここで教鞭をとっていたのが上述の大辻だった。「コンポラ写真」(一般に、日常の何気ない風景を誇張せずに写し取った写真の潮流を表す)の代表的作家とされる牛腸の写真には、瀧口以来の「前衛写真」の精神が大辻を通じて受け継がれている、と見るのが本展の重要な観点だ。
68年に桑沢デザイン研究所を卒業した牛腸は、同級生の関口正夫との共著で『日々』を出版。その後、『日本カメラ』に連載された《幼年の「時間(とき)」》や『SELF
AND
OTHERS』、『見慣れた街の中で』といった、日本の写真史において高く評価される活動を展開していった。正面に人物の姿を据えたポートレートや、街の風景のなかで生活を営む人々の姿など、牛腸の作品からは大辻の「なんでもない写真」にも通じる精神が垣間見える。
牛腸は、幼年期に患った胸椎カリエスにより、身体に負荷を抱えていた。その影響と戦いながら創作を続けていたものの、83年に36歳の若さで世を去った。
会場に展示された写真を眺めていると牛腸の写真は、子供たちの何気ない日常のスナップや、飾り立てないポートレートなど、時代を超えて広く共有される普遍性を持っていると感じられる。近年では渋谷パルコで写真展「はじめての、牛腸茂雄。
」が開かれるなど、若い世代にも認知が広がっている牛腸。いっぽうでそれは、病や夭折といった牛腸自身の物語が写真の評価に影響しているとも言える。また、その作風は発表当初、中平卓馬、高梨豊、森山大道らが参加した写真同人誌『プロヴォーク』の発案者である写真評論家・多木浩二から、「あまりにも素朴」「牙のない若者」といった世代論に寄った批判を受けたことも無視し難い。
こうした牛腸茂雄の写真を取り巻く様々な評価を踏まえつつ、その写真に宿る「なんでもなさ」や日常性になぜ人々が惹きつけられるのかを考えるとき、本展は重要な意味を持つ。瀧口や阿部がシュルレアリスムの解釈を経て提唱した「前衛写真」が、写真の実践者であり教育者である大辻に受け継がれ、そして牛腸のコンポラ写真に結実していくという本展が提示した写真史。今後も長く参照されるべき、重要な視座を提示した展覧会と言えるだろう。