今村裕の一筆両断 「奇跡の1・88ミリ」から考える それでも、人間にしかできないこと
最も印象深く刻まれた場面は1次リーグのスペイン戦での三笘薫選手のセンタリングと田中碧選手の逆転ゴールでしょう。「奇跡の1・88ミリ」と呼ばれた最後まで諦めない姿勢と技術を日本人に見せてくれました。多くの学校でもその写真がポスターとして廊下掲示板などに貼られ、子供たちに「最後まで諦めない姿」としてすでに道徳教育のための教材として扱われています。
この「奇跡の1・88ミリ」を証明したのが、ビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)と呼ばれる、ハイテク機器です。ボールに埋め込まれた電子チップを根拠にあの奇跡の逆転ゴールが証明されたのです。人間の目でしか判断できなかった事柄が技術の発展、特にAI(アーティフィシャル・インテリジェンス)とよばれる人工知能の発達で、ほんの数年前と比較しても大きな変化がもたらされています。
教育の分野もそれに漏れずIT(インフォメーション・テクノロジー)情報技術や、それに加えて現在では機械でのやりとりを加えたICT(インフォメーション・アンド・コミュニケーション・テクノロジー)情報通信技術の進展で、学校の教室の模様も今の大人たちには想像もできないくらい変化していっています。加えてここ数年の「武漢コロナ禍」の中でオンライン授業が定着化し、学校と子供の家庭をコンピューターでつないだ授業風景も珍しくなくなってきました。小学1、2年の子供たちが教室でタブレットを使いこなしている姿を見ると、今の大人が経験している学校教育とは隔世の感があります。
さてここで、このままICT教育が発展していくことについて筆者は強く疑問を抱いています。ここ数年、「AI失業前夜」「10年後、君に仕事はあるのか?」「あと20年でなくなる50の仕事」といった書名が冠せられた書籍が次々と出版されました。内容は簡単に要約すると、AIの発達によって多くの仕事がコンピューターに取って代わられる、というものです。
「大人になったら何になりたい?」。子供のころによく聞かれた質問です。昭和45(1970)年にはエンジニア、プロ野球選手、サラリーマン、パイロット、電気技師…と続きます。それが平成25(2013)年になると、サッカー選手、野球選手、医師、バスケットボール選手、ゲーム(クリエーター)関係…と変化しています。時代の変化、時間の経過を感じるものです。自動車の運転は「自動」車の名前が示すように、そう遠くない時代には自動に運転される車があらわれていることでしょう。パイロットという職業もずいぶん限定されていることが容易に想像できます。
とはいいながら、筆者のような仕事(教育や心理臨床などのカウンセリング)を生業にしていると、やはり「人間にしかできないもの」がある、ということを感ぜざるを得ないのです。教育や心理臨床を提供する主体はあくまでも人間だということに変わりはありません。教育は単に知識を伝えるものだけではなく、その学問の「学び方」を伝えるのも重要な要素です。同時に学校という場は学問を教えるだけではなく、社会生活を学ぶ場所でもあります。そして、子供にとっても大人にとっても、学習することは相当に厳しい。教材が紙でもウェブでもそれは同じでしょう。学ぶための動機付けは、やはり人間の教師でないと難しいのです。いい先生に出会ったことが、その後の人生に大きな影響を与えることは珍しいことではありません。心理臨床(カウンセリング)の領域でもオンライン面接が行われはじめています。最近では飲み会のお断り連絡を代わりにやってくれるサービスまでスマホがやってくれるようになりました。直接の人間関係を忌避するようになってきたのでしょう。
最近、保育者の対幼児の不祥事が次々と明るみに出てきましたが、それは保育者自身の人間としての問題で、保育を機械がしている場面を想像することはできません。
対面とオンライン授業、両方とも可能なとき、オンラインを選択する教師や子供が出てきていることも事実です。しかし、やはり生身の息づかいやその場の雰囲気、言葉ではなく感じることなどを大事にすることが、人間にとって生きる上で最も重要だと考えます。数字で表せることしか評価しない時代になってきていることに疑問を感じているのです。
「対人援助職」という言葉があります。今後、どれだけ時代が進み、AI、ICTが進んでも教育、心理臨床、保育、看護など「人間にしかできないこと」、つまり、直接の生身の人間関係でしかできないことが注目され、ますます発展していくことを強く期待しています。
【今村裕(いまむら・ゆたか)】 昭和31年、福岡市生まれ。福岡県立城南高校、福岡大学、兵庫教育大学大学院修士課程、福岡大学大学院博士後期課程。公立小学校教諭、福岡市教育センター、同市子ども総合相談センター、広島国際大学大学院心理科学研究科、大分大学大学院教育学研究科(教職大学院)を経て、現在開善塾福岡教育相談研究所代表。純真短期大学特任教授。公立学校スクールカウンセラー。臨床心理士、公認心理師。