「纒向は新生倭国の首都」 卑弥呼誕生の背景考察 研究センターの寺沢所長講演
寺沢所長は、江戸時代の儒学者、新井白石が邪馬台国の場所を大和国(奈良県)と主張して以来、邪馬台国の所在を巡る論争はおよそ300年の蓄積があるがいまだに決着しておらず、魏志倭人伝などの文献のみを手がかりとするアプローチには限界があると指摘。「考古学の成果を活用しながら当時の政治状況を把握し、文献との整合性を一つ一つ検証していく必要がある」と述べた。
その上で、卑弥呼が登場する2~3世紀の「倭国」の情勢を紹介。魏志倭人伝で「倭国乱」と記された時期があり、中国・後漢の衰退で後ろ盾を失った北部九州の伊都国(いとこく)に対抗して出雲や吉備、畿内といった各地域が独自色を強めていく過程を、前方後円墳の出現や銅鐸の巨大化などの現象から説明した。
一方で寺沢所長は、この時期には戦争があったことを示す遺跡は少なく政治的な緊張状態の持続が「乱」の実像だったと分析。最終的には北部九州や吉備などの諸勢力が話し合い、後継者問題を回避できる女性の卑弥呼を擁立することで「倭国乱」の状態からの脱却を図ったとした。
そして卑弥呼がいた場所として、3世紀初めに突然誕生した計画都市である纏向遺跡をあげ、「豪華な王墓が確認されていない当時の奈良盆地の社会からは、本来は成立しないような遺跡。北部九州や吉備などの勢力が倭国再編を主導して纏向を新たな首都とし、ヤマト王権成立につながる〝3世紀の明治維新〟を実現させた」と持論を述べた。