なぜここに? 田園地帯にぽつんとエッフェル塔 制作に7年半

佐賀市中心部から北東に約5キロ。佐賀県神埼市の県道沿いに建つ鋼鉄製の塔は、数百メートル離れた場所からもすぐに分かった。高さ約23メートル。ビルにすれば7階建てほどだが、周囲に水田が広がり、高い建物の少ないこの地域ではかなり目立つ。
制作したのはこの場所で自動車修理業を営む板金塗装会社「馬場ボディー」の社長、馬場憲治さん(74)。塔は会社の敷地の一角に建つ。隣町に会社があった1982年に初代が完成し、現在の塔は会社移転後の99年にできた2代目だ。
「初代の除幕式にはフランスの総領事も駆けつけてくれました。当時は見物客もテレビ局の取材も多くて大騒ぎでした。いまも週末には1日に10人から20人くらいは写真を撮りに来てくれます」
塔の見学は自由。夕方からはライトアップもあり、地元のお薦めスポットを紹介するサイトなどにも必ず登場する。もっとも、馬場さんが塔を作ろうと思い立ったのは、純粋に技術的な興味からだった。
高校卒業後、福岡市の板金塗装会社で5年間働いた後、古里に戻って会社を起こした馬場さん。独立に際し、ドイツの職業訓練校と高級車の修理工場で数カ月修業を重ね、パリにも足を運んだ。1889年に開かれたパリ万博のシンボルとして建設されたエッフェル塔は330メートル(当時は300メートル)あり、建設当時世界一の高さを誇った。
「デザインといい、技術力といい、最高。技術者としてしびれた」。馬場さんは初対面でエッフェル塔のとりこになってしまった。「エッフェル塔を作ろう」。そう決心し、数年後、再びパリに向かった。設計図は手に入らなかったが、塔の警備員に頼み込んでいろいろな場所の写真を撮らせてもらったり、寸法を測らせてもらったりして図面を作り、それを基に従業員にも手伝ってもらいながら塔の建設に取りかかった。
鉄を切ったり溶接したりするのはお手のもののはずだが、普段扱っている自動車の板金とは大きさも硬さも全く違う。特に苦労したのは、エッフェル塔下部の特徴的な半円部分をはじめ随所に施された曲線の意匠だ。うまくできたと思っても、時間がたつと変形したり折れたりして、何度も作り直さざるを得なかった。初代の完成までに7年半を費やした。
その後、会社移転に伴って再建した2代目は、高さ17メートルの初代より一回り大きくなった。使った鉄鋼は計50トン超。実は2代目には塔の両脇に、パリの本家にはない小さな2基の塔が付いている。エッフェル塔のミニチュアなどを販売しているフランス人が訪ねてきた際、本家に2基の塔を設置する改造計画があったと聞かされた。本家では実現しなかったが、馬場さんは「そっちの方が格好よか」と、再建に合わせて作り足した。
そんな馬場さんが作り上げたのはエッフェル塔だけではない。車輪部分を走行用ベルトに替え、付き添いなしでも階段を上れるようにした車椅子を発明したかと思うと、2005年には旧日本軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を実物大で復元。ジュラルミン製の本格的なレプリカは13年公開の映画「永遠の0」の撮影でも使われ、現在は愛知県豊山町の「あいち航空ミュージアム」に展示されている。
板金塗装で使うスプレーガンで描いたアートにも独学で挑戦し、スペインやカナダなど各国の美術展に出展。40代のころ、米ニューヨークで開かれたコンテストでは、即興でマリリン・モンローを描いて優勝した。建築や発明、芸術などさまざまな分野で挑戦を続ける馬場さんは、いつしか「佐賀のダ・ビンチ」と呼ばれるようになった。
一方で、アスリートの顔も持ち、交通事故後のリハビリをきっかけに始めた棒高跳びの選手として50代でアジアマスターズ大会優勝。70歳を過ぎた今も練習を続け、5月に出場予定の県の大会で当時の記録3メートル20を更新するのが「目標」と語る。近年は執筆活動も始め、佐賀にまつわる小説とノンフィクションを相次いで出版した。
それにしても、このあくなきチャレンジ精神はどこから湧いてくるのだろう。不思議になって聞くと「若いころから『必死の心』を自分のテーマにしてきました。必死になったらできないことはない。人間誰しもいつかは死ぬのだから悔いを残したくない」という答えが返ってきた。
来夏のパリ五輪では、セーヌ川で開会式が開かれ、選手たちはエッフェル塔前まで船で入場行進する。エッフェル塔周辺ではビーチバレーなどの競技開催も予定されている。本家の露出が増えれば、「佐賀のエッフェル塔」も、その制作者も注目を集めるに違いない。「今から楽しみです」。馬場さんはワクワクを隠せない様子でほほ笑んだ。【井上俊樹】