メイド喫茶のピンクはヤニでくすんでて夢なんて見ない自由があった【エッセイ】上坂あゆ美
かつて、場末のメイド喫茶でアルバイトをしていた。その頃はもうアキバブームという言葉が死語になりつつあって、ブーム時に乱立したコンセプトカフェやバーなどがどんどん消えていった。私のバイト先はそんな時代でも細々と生き残り、それなりの固定客を得ている店だった。店のオーナーは、メイド喫茶というよりもキャバクラ経営が似合いそうな強面の人で、実際グレーなルールや方針も数多く存在していた。店内は換気が悪く、フロアにもスタッフルームにもタバコの臭いが染み付いている。パステルカラーに塗られた壁や床は黒ずみや傷がたくさんついていて、いくら拭いてももう綺麗にならない。当初はしっかりしていたであろう世界観の設定も、もはや綻びがあることが前提となっており、ホールスタッフがメイド服を着ていることと、客が入店したときに「おかえりなさいませ(=ご帰宅)」、店を出るときに「いってらっしゃいませ(=お出かけ)」という掛け声をすることだけが、唯一メイド喫茶としてのアイデンティティを保っていた。地理的には都心部に位置していたが、その店にはいろんな意味で「場末」という言葉がぴったりだった。
同僚で最初に会ったのはいちごさんだ。150cmにも満たないくらいでかなり小柄な彼女は、茶色に染めたロングヘアーをツインテールに結い上げ、テンションの高いアニメ声で接客をする、まさに絵に描いたようなメイド像を体現している。裏のスタッフルームで一緒になってふいに年齢を聞かれたとき、私が18ですと答えると、「若いんだねぇ……」と、意外と低い地声で感想を言われた。会話はそれだけだった。その後、いちごさんがこの店の最年長で、他の女性スタッフとほぼ会話をしない一匹狼であることを、別のスタッフから聞いた。
次にシフトに入ったとき、私は新規客の接客をしていた。多くの水商売がそうだと思うが、ほとんどの常連客には推しの女の子がいて、その子のシフトを狙って来店するため、常連客のテーブルに付くのはなんとなく気まずい。また、常連客とは世間話や身の上話が多くなるのに対し、新規客はテンプレート的な会話だけで済むから楽だった。ただ、その日の新規客は少し様子が違って、個人情報を踏み込んで聞いてこようとしたり、フロアを見渡して他の客のことを嘲るように笑ったりした。私が心を無にしてマニュアル通りに「美味しくなあれ♪美味しくなあれ♪」とかやってたら、後ろから「初めまして~! らいとです~」という明るい声がする。先輩メイドのらいとさんだ。そのテーブルにはらいとさんが付いてくれたので、代わりに私は空いていた常連客に付くと、「らいとちゃんはベテランだから。ちょっと口悪いしヤンキーっぽいけどね」と常連客が嬉しそうな声で言う。その少し自慢げな言い方と、熱っぽい眼差しから、私はこの人がらいとさん推しであることを察した。その後らいとさんとすれ違ったとき、「新人は新規に付かなくていいから。ヤバい客もいるし」とぼそっと囁かれた。そうしてすぐさまテーブルに戻るらいとさんの背中は、百戦錬磨の武士のようで、私は彼女を推したくなる気持ちが少しわかった。
いちごさんやらいとさん以外にも、店には常時20名ほどのメイドが在籍しており、1日のシフトはそのうち5、6名で回すことになる。私が働いていた約2年半の間にも、たくさんの女の子たちがメイドになっては抜けていった。初日で飛んでしまう子もいたし、出勤のたびにキスマークを付けてきて厳重注意を受ける子もいたし、リストカットの跡が日に日に増えていく子もいた。ただ、メイドたちの間では妙な連帯感があった。誰のほうが可愛いとか、誰のほうが人気がある、みたいなヒエラルキー意識はうっすらとあったけど、いじめとかひどい陰口とか、そういうことはなかったと思う。私も含めて人生に何らかの問題がある子が多かったから、いじめなんて非生産的なことをする余力はなく、私たちは東京で、日々を生き抜くのに必死だった。店外で彼女たちと話すのは、多くがご主人様(=お客さん)の愚痴か、未来の仕事や結婚や出産などの人生の話だった。タバコ臭さをピンクのハリボテの夢で包み込んだあの店は、生きづらい私たちの地下シェルターのように存在していた。
常連客にも様々な人がいた。一番多いのはいわゆる普通のサラリーマンという感じの人で、大体の人には熱心に推しているメイドがいた。推しのシフト時間内はずっといてくれるので、店としてもとてもいい客だったと思う。推しメイド以外にも優しく、常識的な楽しい会話をしてくれたし、身なりも清潔感があって本当に普通の人に見えた。でもある人は、特定のメイドとのチェキを毎回必ず撮ってその数1,000枚に達しようとしていたり(チェキ1枚で1,000円弱かかるので、チェキだけで合計100万円弱)、またある人は、長野に転勤になったにもかかわらず、推しメイドのために片道4時間かけて毎週末ご帰宅したりしていた。普通のサラリーマンと思っていたら、生活保護を受けていてそのお金でメイド喫茶に通っている人もいた。彼らは皆、いつか推しと付き合えることを本気で夢見ていた。私はそのとき、普通の人ほど純粋に狂ってしまうことがあるんだなと思った。
ご主人様は、店内では基本ニックネームで呼ばれる。その中にケビンさんという人がいた。日雇いで警備員の仕事をしているため、「けいびいん」が短縮されて「ケビン」になったらしい(日本人である)。ケビンさんは顔や手が真っ黒に日焼けしていて、数日洗ってない風なボサボサした黒髪で、前歯が数本なかった。席につくといつも、いかに金がないか、彼女ができないか、仕事がつらいかみたいなことを一人でずっと話している。まあでもそれだけで特に害はなかったので、メイドたちはふんふんと適当に話を合わせてやり過ごしていた。
ある日、シフトが終わったあと近くで買い物をして、店の近くを通りかかった私は、店から出てきたケビンさんとばったり会ってしまった。冬の夜、遅めの時間だったので、ちょうど周囲にあまり人気がない。外界に放たれたケビンさんは、店内で見るよりもずっと「ヤバい人」感が増していた。気づかないふりをして逃げたかったが、もうばっちり目があってしまった。ケビンさんは「おう、おつかれ」と言い、おもむろに店の前にあった自動販売機でコーヒーと紅茶を買った。そして「どっちがいい?」と言われ硬直している私に、無言で温かい紅茶を投げる。このままどこかに連れて行かれるかもしれない、そうでなくても店外デートに誘われてしまうのでは……と警戒しまくっていると、「いやあ、今日も楽しかったよ。ここにいるときだけが楽しいな、人生」と、ケビンさんは歯のない笑顔を見せて、そのまま駅に向かって去っていった。真冬の夜、私の手の中で、ケビンさんが買ってくれた150円のペットボトルだけが温かい。多分、私に不用意に触れないように、投げて渡してくれたんだろう。ケビンさんがこのお店に来るために、一生懸命働いて、生活を切り詰めていたことを知ったのは、もっと後のことだった。
2年近く在籍し、私もベテラン枠に入ってきた頃。長時間のシフトを終えて疲れ切った私たちは、たまのご褒美として激安焼肉店「安安」で、薄く伸ばしたゴムのような牛タンを食べていた。らいとさんが半ば無理やり誘ったおかげで、今日は珍しくいちごさんも一緒だ。らいとさんはいちごさんに「いちごちゃんさあ、なんでご主人様には超優しいのに、女に対してあんなキツいの?」と右ストレートパンチのような質問を投げかける。いちごさんは「だって……怖いんだもん」と、心細そうに答え、私とらいとさんは爆笑した。店であんなに恐れられていたいちごさんも、私たちと同じ、ただの生きづらい一人の女の子だったということがわかったから。
その日も皆で人生について話していて、大学3年になろうとしていた私は、そろそろ就職活動のためにバイトを辞めることを考え始めていた。「大学出たら、何の仕事しようかなあ」と言う私に、「お前なら何でもできるよ。絶対に、絶対にそうだから」らいとさんは真っ直ぐ眼を見て言った。いちごさんも「そうだよね。アユミちゃんなら、きっとどんな仕事だってできる」と、恥ずかしいのかこちらを向かず、前を向いたままで同調してくれた。
後から気づいたが、メイドたちは多くが高卒か専門学校卒のフリーターで、大学生は少なかった。らいとさんもいちごさんも同様に、フリーターとしていくつかの仕事を掛け持ちして働いていた。私より大人だった2人は、自分よりも選択肢が開かれている大学生の私の無邪気な話題に、本当は何を思ったんだろう。
あの頃の私は、安安以外の焼肉の味も、人の言葉は必ずしも本心ではないということも、あるいは世界のすべてについて、何も何も知らなかった。自分が何も知らないということすら、わりと最近になってから気づいた。それでもあの日2人がくれた「何でもできるよ」は、ハリボテじゃない本当の気持ちだったと思うのだ。
ちなみにらいとさんといちごさんは、今やそれぞれ3人の子どもを持つママになった。しかも2人とも、当時の常連客の一人と結婚した。叶う夢って、意外とあるもんだなと思った。
※特定を避けるため人物名、エピソードなどは一部変更を加えています
上坂あゆ美(うえさか・あゆみ)
1991年、静岡県生まれ。東京都在住。2017年から短歌をつくり始める。2022年2月に第一歌集『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)を刊行。銭湯、漫画、ファミレスが好き。
Twitter:@aymusk