マネの中の福田美蘭。椹木野衣評「日本の中のマネ 出会い、120年のイメージ」展
「日本の中のマネ」──タイトルからしていかにも地味な展覧会だ。新聞社やテレビ局が大予算をかけ、広く知られた名作が並び、大量の鑑賞者が動員される、いわゆるブロックバスター展とは対極にあると言える。コロナ禍でブロックバスター展は大きな壁に突き当たったと言われるが、本展のような国内のコレクションを活かす展示が目立つようになったことなど、かえって良い面もある。また、そうした面をここまで直截にタイトルで表明した展覧会も珍しい。なにせ「日本の中のマネ」である。あらためて強調したいのは「の中の」という部分だ。「日本のマネ」で通じなくもないところを、ややくどく聞こえてもなお「の中の」としたところに。本展の企画者による批評的な意義を汲みたい気持ちになる。それはブロックバスター展が大前提とする「グローバリズム」(の外の)への皮肉めいた響きを持つと同時に、「の中の」という視点からしか見えてこない「新しいマネ像」を輪郭づけようとする明確な意思も感じさせる。
画家としてのマネは「日本の中」であまりにも有名である。美術の教科書などで必ず大文字の画家として扱われるからだ。その点だけで言えば、有名さの度合いはモネやセザンヌと変わりがない。にもかかわらず、マネとモネはしばしば混同されやすい。けれども、それを一文字違いの響きのせいばかりにもしていられない。本展の図録によると、マネの日本国内での個展は驚いたことに過去にわずか3回を数えるのみで、コレクションにも乏しいものがある。つまり実作にふれる機会が圧倒的に少ないのだ。長く「近代美術の父」「印象派の首領」とされながら、それでもそうなのだ。
ゆえに「日本の中のマネ」で構成される本展の展示も、おのずと「地味」にならざるをえない。だが、明治以降の日本は、絵画の近代化を印象派の導入とともに開始したのではなかったか。逆に言えばだからこそ、マネをめぐる名目上の「歴史的意義」や「有名さ」と、実質としての「地味さ」や「少なさ」とのギャップが、まさしく「日本の中のマネ」を解き明かす鍵となる。言い換えれば、それは日本の近代美術とはいったいなんだったのか、という最重要な問いへと通じている。その意味で本展は「地味」であるどころか、日本の「美術」を考えるうえでじつに根源的な問題提起をしている。蛇足めいた補足をするなら、もっとも根源的(ラディカル)なものはしばしば足が地につくがゆえに地味で目立たない。だからこそ危険で要注意なのだ。のちに触れる福田美蘭がそうであるように。
これらのことを要約しているのが、「重要な画家であることはわかっているけれども、なぜか、どこか抜け落ちている(*1)」という表現だろう。その背景には、マネが近代美術、言い換えればリアリズム(近代)の画家としての位置づけと、印象派、言い換えれば抽象画(現代)の始まりとのあいだで、じつに曖昧な認識のされ方をしていることがある。わかりやすく言えば、マネは「クールベ」の側にもいないし「モネ」の側にもいない。だが、それが近代と現代とのギャップというものではなかったか。そしてこの埋めがたいギャップが、いまなお持続する困惑として現在に居座り続けているのだとしたら、その最大の矛盾であり可能性でもありうる「様式概念としての現代と、価値概念としての近代との矛盾(*2)」をもっとも切に託されているのは、現在を生きマネを継ごうとする作家たちであるにちがいない。
この難題に、それこそ「地味だけれどもラディカル」というマネを地でいく出品で応えたのが、福田美蘭
である。1989年に弱冠26歳の史上最年少で「安井賞」──最近の世代は知らないかもしれないので補足しておくと、文壇の芥川賞に比された洋画界の新人賞──を受賞し画壇に登場した福田は、その後の同賞の消滅に象徴される画壇の衰退に沿うように、発表の場を現代美術寄りにシフトした。けれども、その歩みは同世代で相前後してデビューした
村上隆のような世界性、会田誠
のような批評を明確に発揮することなく、どちらかといえば地味で「日本の中の(ドメスティック)」なものに映った。だが、この点で福田はじつにマネ的であったとも言える。その意味で今回の出品作中、もっとも端的にマネを擬えたのは、ガラスの花瓶に生けたレゴブロックでできた花を描いた《LEGO
Flower
Bouquet》(2022)だろう。本作は、マネがその特異な作風にもかかわらず、サロンへの出品にこだわったことにちなんで、本展覧会の会期中に日展の洋画部門に出品された。そのうえで審査を通過し入選となれば、作品は日展の会場で陳列されることとなり、もとの会場には戻らない。落選となれば、同作は会期いっぱいまで、もとの会場で再び飾られることになる。「サロン」への入選か落選かはマネがずっと固執した一線であると同時に、福田はかつて日本の「サロン」の行く末を宿望された「新人」であり、場合によっては審査する側にまわっていても不思議はなかった。結果は落選で、無事(と言ってよいのかわからないが)同作は会期をまっとうすることになったのだが、はたして入選と落選とでは、どちらが福田にとって良かったのだろう。
ところでこの作品をはじめ展覧会場で見ることができた絵のいくつかが、公式カタログに収められていない。それについては美術館のショップに掲示されたポップで紹介されていた『番外編図録』に載るようなので、その場で申し込んだが、現時点(1月25日)でまだ届いていない。美術館に問い合わせると1月中には送付完了の予定とのことだったが、さらに延期となっている(2月14日)。遅延については何がしかの理由が考えられ、気になるところだが、それはひとまず置くとして、非収録作品について著作権が何がしかの影響を及ぼしているのは想像できたものの、日展に出品されたなんの変哲もなさそうな花の絵についてはなぜ収録されていないのだろう。気になって日展の開催要網(*3)を見たところ、【著作権について】との事項内に次のような記述があった──「本法人が、当該年度展覧会の陳列作品の紹介、解説の目的をもって印刷、刊行する出版物並びに録画物の放送、頒布、販売の著作権は、本展開催期間中および終了後、巡回日展開催期間中を含めた1年間、本法人に帰属し、その後は著作者との契約によりこれを行う」──すると、日展に入選したときのことを想定しての対策的なものであったのかもしれない。これなどもいかにもさりげないが著作権の問題を別の角度から炙り出す。
だが、今回の出品作でもっともわかりにくく、ということはつまり、もっとも忠実にマネを現在に置き換えていたのは《ゼレンスキー大統領》(2022)だろう。主題こそ似ても似つかないものの、一見してマネ晩年の大作《フォリー=ベルジェールのバー》(1882)を想起させる本作は、夜の酒場で虚ろな目で階下の享楽を見つめるでもなく眺めるウエイトレスが、ロシアからの軍事侵攻を受け、虚ろな目でその立場を世界に発信するウクライナの大統領に置き換えられている。ゼレンスキーの発信はテレビのモニター越しで、ゆえに戦争下に置かれた群像は描かれていないが、それはこの肖像画のトーンがモニター越しを模して描かれていることで、透明な存在として潜在的に示される。他方、マネの絵で彼女の下方に群衆がいるのは、背後にあしらわれた巨大なガラスの効果による。つまり過去と現在、権力者と労働者、そして性別という違いこそあれ、二人は透明な「ガラス」越しに群衆という世界像を「見つめるでもなく眺め」ている。としたら、その表情が体温の通った対象を欠き、虚ろに類似してくるのも当然と言うべきだろう。いったい誰が、このような絵を通じてマネを現在に蘇らせることができただろう。
ところで去る元旦、ロシアのプーチン大統領を名乗る年賀状で新年の挨拶が届いた。モニターではなく郵便で届いたこのプーチンの肖像画を見て、私は思わず福田によるゼレンスキーの肖像と比較してしまった。この送り主ははたして福田によるゼレンスキー大統領の肖像画を見て、意識していただろうか。
*1──『日本の中のマネ 出会い、120年のイメージ』平凡社、2022年、148頁。
*2──宮川淳『宮川淳 絵画とその影』建畠晢編、みすず書房、2007年、22頁。
*3──「第9回 日本美術展覧会 開催要綱 令和4年度(2022)」
https://nitten.or.jp/wp-content/uploads/2022/06/8cec833a5926291d20605a8f3d25ad73.pdf
(『美術手帖』2023年4月号、「REVIEWS」より)