「自慰」は古代ギリシャで“真の男”がすべきものではなかった!
自慰が創造の行為だった文明もいくつかある。たとえば、シュメール人たちは水の神エンキがただ射精して、チグリス川とユーフラテス川を創ったと信じていた。
古代エジプト人たちはややその上を行っていた。神のオーガズムをある種の「ビッグバン」と考えていた。というのも、アトゥム神のせわしない手が、宇宙の創造と、最初の二神である空気の神シューと蒸気の神テフヌトの創造に重要な役割を果たしていたからだ。
その神話によれば、アトゥムは神聖なる精子を周りの虚空中にふりまいて、その孤独に終止符を打つことにした。アトゥムの臨在はナイル川の氾濫によって示された。その氾濫は、聖なる射精の頻度に起因するとされていたのだ。
人々と神々の仲介者たるファラオたちは毎年、肥沃多産の神ミンの祭りの最中に、ナイル川に向かってうやうやしく射精し、豊穣を祈願した。
この二文明にとって、自慰は自然なもので、ひとりのときには通常の性行為に代わる健全な行為と見なされていた。シュメール人たちに至っては、自慰が精力増強に最適だと信じてさえいた。
だが、自慰はギリシャ人たちからはまったく違ったふうに見られていた。
古代ギリシャでは、売春婦からサービスを受けるのはまったく恥ずかしいことでなかった。多少の買春は、男らしさの重要な一面でさえあった。
婚外で性的な関係を持つのも不名誉なことではなかった。男がほかの男に欲情するのも恥ではなかった。とくに相手が美しい少年となればなおさら問題なかった(時代と都市国家によるが)。
ところが、自慰となると、この無害に思える行為がギリシャでは下品で、「他の輩」にしか相応しくないものと見なされていた。
なぜこの行為がいかがわしいと考えられていたのか、その用語がひとつのヒントになる。自慰を指す最も一般的な動詞は「デフェスタイ(やわらげる)」だったが、大半のギリシャ人にとって男の性的能力は本質的に力関係をめぐるものだった。
寝床ではけっきょくのところ、攻めるか受けるかしかなかった。それでいえば自慰は受け身な行為であり、身分の低い男たちやその他の「エンクラテイア(自制)」を欠いた惨めな者たちにお似合いのものだった。
社会で尊敬される身、つまり「真の男」としては、寝床で「挿入する」攻め役しか果たせないのだ。したがって、自慰(またはフェラチオやクンニリングスをすること)は自己去勢の行為と考えられた。
市民としてのアイデンティティが発達するにつれ、とくにアテナイでは、開化した文明の一員たる真の意味を補強することがますます重要になった。そこで自慰が文学や図像において、文明開化した者を野蛮人から分離させる要素のひとつとなったのだ。