弘前を「世界に通じる窓口」に。弘前れんが倉庫美術館副館長・木村絵理子インタビュー
比較的最近、今年に入ってからのことです。私も突然打診されて驚きました(笑)。私のどこに興味を持たれたのか不思議に思っていましたが、話を進めていくうちに納得しました。ご存知の通り、弘前れんが倉庫美術館の開館は2020年ですが、その建物は、明治・⼤正時代に酒造⼯場として建設され、戦後はシードル⼯場(吉井酒造煉瓦倉庫)として使われた場所です。2001年には、私が勤務していた横浜美術館を皮切りにスタートした奈良美智さんの国内初の大規模個展「I
DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」がその吉井酒造煉瓦倉庫に巡回し、その後も05年(「From the Depth of My
Drawer」)、06年(「YOSHITOMO NARA+graf A to Z」)と展覧会が続くなど、
展覧会をプロジェクトとしてつくり上げていく力は地元に育っていた
んですね。そのいっぽうで、「美術館」という組織としては、コレクション収集やその位置付けという仕事も含めて、力が足りていないんだというお話がありました。
弘前れんが倉庫美術館は、市が所有し、民間が運営する美術館です。私が勤務していた横浜美術館では、私の入職当時(2000年)は単年度予算が直接横浜市から配分される形式でしたが、2008年には指定管理者制度(第1期)が導入され、第2期には政策協働型という美術館と市が協議をしながら一緒に制度設計をしていくスタイルへと変わっていきました。私はちょうどその制度の変遷を間近に見てきたと言えます。そうした経験は、弘前れんが倉庫美術館を安定的・継続的に運営していくための下地をつくるのに役立てられるのではないかと考えたのです。
──日本の美術館館長では、蔵屋美香さん(横浜美術館)、片岡真実さん(森美術館)、保坂健二朗さん(滋賀県立美術館)、鷲田めるろさん(十和田市現代美術館)
など、代替わりが目立ちます。木村さんはこれまで長らく横浜美術館のキュレーターでしたが、ご自身のキャリアの先に副館長、館長というのを見据えていたのでしょうか?
そこまでは考えていませんでしたね。願ってなれるものではないですから(笑)。例えば横浜美術館だと前館長は逢坂恵理子さんでしたが、当時は美術館館長に女性はほぼいない状況でした。ジェンダーバランスはまだ5:5ではありませんが、状況は改善されはじめていると感じています。とくに横浜美術館は女性館長が2代続いたので、私にとっても大きな出来事でしたね。
日本の美術館館長はマネジメントの比重が多く、自身で展覧会をつくることが難しくなっていくものですが、私はつねに現場で展覧会をつくり続けたいタイプの人間なんです。今回打診いただいた副館長兼学芸統括という立場は、現場とマネジメントの両方ができるポジションだったことは大きかったですね(海外美術館ではディレクターが展覧会も統括するのは当たり前のことではありますが)。
──館長と副館長での役割分担はどうなるのでしょう?
現館長の三上雅通さんは、美術館以前のれんが倉庫で奈良さんの展覧会をきっかけに設立された特定非営利活動法人harappaの理事長も務めている方で、地域との強いネットワークをお持ちの方です。三上さんが築かれた街との信頼関係は頼っていきたいですね。
──弘前れんが倉庫美術館は開館4年目の若い美術館ですが、木村さんはこの美術館をどのように見ていたのでしょう?
現代美術に特化し、しかもコミッションワークを柱としている挑戦的な美術館だなと。空間としても白い壁はほとんどなく、かつてのシードル工場の佇まいが残っていますよね。場の力がとても強いので、アーティストは想像力が掻き立てられますよね。この空間からは、弘前のコミッションワークとしてつくられたものを将来的には外の世界に紹介していきたいという考えも読み取れるので、大きな可能性を孕んでいると言えるのではないでしょうか。美術館だけで完結せず、作家とともに作品を生み出し、歴史を紡ぎ、世界に発信していくということが考えられる美術館です。
──日本の美術館で世界へのアプローチまでできている事例は非常に少ないですものね。
あまりないですが、例えば山口情報芸術センター[YCAM]はそれに近いかもしれません。弘前れんが倉庫美術館は、幅広く現代美術を扱い、きちんとインスタレーションとして完成させることができる場所として、可能性を秘めていると思います。
──木村さんは副館長兼学芸統括ということですが、キュレトリアルな部分でやってみたいことなどはありますか?
まだ弘前の歴史について学べていないのでゆっくり考えたいところですが、例えば日本ではひとつの土地にゆかりのあるアーティストなどを考えるときに、行政的な区画に縛られることが多いと思うんですね。例えば弘前市でやるなら弘前出身・在住のアーティスト、といった具合に。でも現代では移動が当たり前で、地域性も流動的ですよね。何かの縁をもってその土地に訪れた人は、その土地と関係性を結んだ人と言えると思います。また私たち自身が何を見て育ち、何に影響を受けてきたかを考えたとき、必ずしも自分の土地で生まれたものだけがすべてではありません。それくらいの広い視野で、美術館とアーティストの関係性を見出し、来館者にどう共感してもらえるのかを一緒に考えていきたいですね。アーティストも国内のみならず、海外もあり得ると思います。広い視野を持ち、観客、アーティスト、美術館のスタッフが、それぞれひとりの人間としてつながりをつくっていけるような作品、プロジェクトをつくっていきたいですね。
──木村さんは国内のみならず海外とのコネクションもお持ちです。そうした部分も弘前では生かしていくということになりそうですね。
そうですね。今回の就任を美術界の近しい方々に報告したとき、海外のキュレーターたちは当たり前のこととして受け止めてくれたんですよね(笑)。海外では違う美術館に移っていくことは普通ですから。また海外の人たちは日本人が思うほど「東京:地方」という対比関係でとらえておらず、「日本に行くなら弘前にも寄るね」くらいの感覚を持っている。もはや「日本に来たら東京にしか行かない」というフェーズではないのだと思います。
──面白いことをやっていれば人は集まりますから、距離は案外関係ないかもしれませんね。美術館の規模についてはどうでしょうか? 横浜美術館は首都圏でも大きな美術館でしたが、弘前れんが倉庫美術館は相対的にかなり小さいです。そのあたりに懸念は?
規模によって役割、やれることも変わってきますので、とくに懸念してはいないですね。美術館の対人口比で考えると、弘前の方が大きいかもしれませんし(笑)。それに、世界のメガミュージアムから見ると、横浜美術館を含め、日本の美術館はいずれも中小規模ですので、そんなに大きな差はないと思います(笑)。いずれもとらえかた次第ですね。
──弘前だけでなく、青森県内の美術館はどれもユニークさでは強い存在感を有しています。
ひとつの県の中で、これだけ現代美術にフォーカスした場所があるのは特異だと思います。これらはどこも2000年以降にできた美術館です(編集部註:青森公立大学国際芸術センター青森(ACAC)は2001年、青森県立美術館は2006年、十和田市現代美術館は2008年、八戸市美術館は2021年にリニューアル開館)。つまり、20世紀までにつくられた美術館の概念とは大きく異なるものなのです。20世紀までの美術館は、美術を価値付けし継承していく、ある種の「権威」をつくる場所でした。
私が横浜美術館の採用面接を受けたとき、印象的だったエピソードがあります。当時、面接官の方に、私は恐れ多くも「来年始まるヨコハマトリエンナーレに横浜美術館はどう関わるのですか?」と逆質問したんですね。それに対して館の方が、美術館は美術の価値をつくる場所で、国際展はそれに対するカウンターとして存在する、というような趣旨のことをおっしゃったんです。つまり芸術祭に美術館は関わらないと。でもそれは非常に20世紀的な考え方です。
──いまでは考えられないですね。
そうですね。結局、第1回のヨコハマトリエンナーレのとき、美術館はトリエンナーレと緩やかにつながりつつも役割を別にするというかたちになったんです。ちなみにそのときの展覧会が、のちに弘前に巡回する奈良さんの「I
DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」だったのですが、いま思うと不思議な巡り合わせですね。
結局ヨコトリも第2回(2005年)になると、私自身がトリエンナーレ事務局に出向するというかたちになり、「あれ?」と(笑)。
その頃、世界ではテート・モダンが開館し(2000年)、巨大な吹き抜けの「タービンホール」でコミッションワークを展示するようになっていました。「権威の象徴」だった美術館が、まだ何者になるかもわからないアーティストとともにコミッションワークを生み出していくようになったわけです。またマーケットでは、アート・バーゼルが大規模作品をコミッションする「アンリミテッド」というセクションをスタートさせています。つまり、美術館もマーケットも、コミッションへの垣根がどんどん低くなっていった時期なんですよね。
ニューヨークでは美術館からコマーシャルギャラリーに転職する事例も見られるようになるなど、2000年以降は20世紀につくられた美術の垣根が取り払われた時代とも言えると思います。
そう考えると、2020年に開館した弘前れんが倉庫美術館がコミッションワークをメインに活動しているのは、この大きな潮流の中にあるのではないかと思えてきます。その流れにおいて、では次に何ができるかを考えてみたいですね。
──木村さんの個人史と美術史がリンクしていてとても面白いですね。先ほど芸術祭・国際展の話がありましたが、青森/弘前でもやってみたいという考えはありますか?
「芸術祭」という名称とするのがいいのかも含めて、どういうスタイルでやるかはよく考えないといけないと思います。ヨコハマトリエンナーレに20年近く従事するなかで世界の様々な芸術祭をリサーチしてきましたが、どの芸術祭にも「その土地でやるべき必然性」と「適したスタイル」があります。いっぽうで、そうした芸術祭がこれから先も同じようなスキームで続いていくかには疑問があるんです。
──それはなぜですか?
多様な価値観のあるなかで、芸術祭がもたらす環境への負荷は無視できないからです。あるひとつの場所に大量の何かを集めることが、皆にとって自然な行動なのかは考える必要があるのではないでしょうか。
──時代にあわせ、何かしらの新しいかたちを探していかなくてはいけないと。
もちろん、私自身が明確な答えを持っているわけではありません。ただ青森は県内に美術館インフラが整っている場所なので、他の美術館とも連携し、議論し、何が土地に相応しいかたちなのかは考えていかなくてはいけないと思っています。
──いま、日本国内の美術館はどこも経営的に厳しい状況にあると思います。東京圏以外の美術館の生きる道はどこにあるとお考えですか?
まず美術館の規模が大きすぎないのはメリットだと思います。基本的なランニングコストが低く抑えられるので、経営的に継続できるかたちを探していけば安定できる可能性が高いと思います。都会の大きな美術館は、何をやるにしても「失敗できない」という大きなプレッシャーがありますが、小さな美術館だと実験的な取り組みができますから。
設置形態はやや異なりますが、直島は好例だと思います。一つひとつの建物は小規模ですが、徐々に拡張していき、いまでは世界中のアートファンが注目する場所となりました。そういった運営形態から生まれていくプログラムが国際的な発信力を持っていくという可能性はあるのではないでしょうか。
また、弘前は多くの公立美術館とは異なり、運営自体は民間企業が担っています(設置者は弘前市)。ですから民間のノウハウが取り入れやすいという利点もある。公立美術館としてのミッションは担保しつつ、運営面では裁量が大きい。これは、今後の日本の美術館を考えるうえでは興味深い形態だと思います。
──プログラムという意味では、日本の美術館は国際的な存在感は弱いですよね。ブロックバスター中心主義ではないやり方が必要でしょうか?
生き残っていくためには、考えていかなくてはいけない時期だと思います。
──首都圏の美術館は、「あの美術館に行きたい」というよりも「〇〇展に行きたい」という、展覧会先行型だと思います。持続可能性という意味では「美術館そのもののファン」を増やしていく必要もありますね。
青森県内の5施設はいずれも2000年以降の美術館ですが、この時代の美術館の大きな特徴として、「ホワイトキューブ至上主義」ではないということが挙げられます。つまり、作品のヴァリエーションが広がるなかで、作品に適した空間が必ずしもホワイトキューブであるわけではないということですね。また2000年代は「体験」が求められる時代でもあります。こうした時代の空気を取り込んで設計された美術館は、場の特性(アイデンティティ)があらかじめ備わっており、その特性は外部にも伝わりやすいと考えています。
弘前で言うと、市民にとって「れんが倉庫」は生活のなかに当たり前のようにあるものなんです。歴史豊かな弘前のなかでも象徴的な建物のひとつが美術館となった。ここが、弘前市民や青森県民にとっての「世界とつながる窓口」になればいいなと思います。