10のナラティブ。「ナラティブの修復」展に寄せて
まず展覧会名だが、そもそもナラティブは直すものではない。ある寺院の修復作業にたずさわった職人が当時を振り返って聞き手に語った物語。それは寺院の修復のナラティブと言えるが、ナラティブとはそうした語り残しの行為であり、あらかじめ修復することはできない。あえて修復という言い方で示唆したいのは、ナラティブのための環境や関係性の回復についてである。震災から、先の東京オリンピックまでの10年間、次々と空虚なフレーズが飛び交い、無理をしてでも経済振興につなげようとするシナリオのなかにどっぷり浸されていたような感覚がなかったか。うわずったスローガンの背後で被災地の風景はつくり変えられ、いつのまにかナラティブの素地であり過去の想起につながる手がかりを失ったことに気付かされる。
こうした問題意識は、わたし個人の印象だけでなく、震災後にメディアテークを利用して活動してきた人たちの共通認識であると思われる。彼らは「記録すること」を重視してきた。それは、経済的に無用なものは意図的に残そうとしなければ消えていくことを、震災以前の社会のなかで目撃してきたからだろう。また、過去を知る手がかりは復興の営みによって否応なく失われることを、震災直後のさまざまな徴候のなかに認識してきたからである。こうした記録や保存への倫理観が、自由な表現の抑制であるととらえるのは早計であって、むしろ個々のメディウム/メディアの運用技法や制作プロセスの開発につながってきたように思われる。それは自己主張からではなく他者の声を「聞くこと」から始まる表現であると言えるだろう。本展ではそうした創造性の提示を試みた。では、展示された10のナラティブを個別に見ていこう。
伊達伸明は関西で活動するが、仙台にゆかりのある彼は、震災後、釜炊きの燃料や木工細工に用いられてきた仙台の亜炭にまつわるプロジェクト(*1)を数年間実施してきた。本展では、これまで東北では未紹介であった彼のプロジェクト「建築物ウクレレ化保存計画」で制作された16のウクレレを展示した。これは、取り壊される建築物の部材を用いてウクレレを制作するもので、2000年から続けられている。これまで公共建築から個人住宅までさまざまな建物がウクレレとして保存されてきた。経年によって生まれる豊かな質感の建材や内装の一部がウクレレのパーツとなって生き残り、そこで生活した人々の時間を、展示台に示された履歴とともに物語る。しかし、温故知新と言えば収まりがよいが、実際には止むことないスクラップ&ビルドのなかの21年の活動である。時の流れには逆らえず、ウクレレに込められた記憶が遠のいてゆくことも否めない。時折流れる録音されたウクレレの音色は、伊達の言う「トホホ~な感じ」を軽やかに醸し出していたのではないだろうか。今回はそうしたペーソスの表現として、方丈記を記した鴨長明と伊達の架空の対話作品《ふたりのN明》も展示した。
建築を学んだ菊池聡太朗は、宮城で活動する写真家の志賀理江子の制作を学生時代から手伝うなどしながら、自身もドローイングを中心とした制作と展示発表をしてきた(*2)。菊池は、このところ「荒れ地」を主題にしている。荒れ地は、コロナウイルスの流行以後、T・S・エリオットの詩が数多く引用されたため馴染みもあるが、菊池は、エリオットのように死や社会荒廃の象徴としてではなく、荒れ地を慈しもうとしているようだ。親しんだ宮城の風景のなかで、心象と重なる場所を荒れ地として描きだすのであるが、それは自然の造形とも、打ち捨てられた空き地のような人為的なものとも受け取ることができる。人為とすれば資本主義経済の残滓として反省的にとらえることもできるが、菊池はそれも含めて荒れ地を肯定的に眺めている。むしろ、野ざらしの観察こそが人間性の回復に接続すると確信しているように思われる。本展では、21作品を自立させて展示し、地名の消された地図によって荒れ地を眺めた作者の視点も示された。さて、菊池は「建築ダウナーズ」という建築系のデザイングループにも参加している。建築ダウナーズ(白鳥大樹、千葉大、吉川尚哉、菊池)は、後に紹介する小森はるか+瀬尾夏美の展示デザインもおこなった。
佐々瞬は、震災後に郷里の仙台に戻り、現在はここを拠点としている。今回は佐々が長年にわたって調査し、住人との関係を築いてきた仙台の追廻地区に関する展示をおこなった。仙台城址のある青葉山の真下に位置する追廻は、伊達家重臣の屋敷や、厩があった場所である。戦後は焼け出された避難民のための仮設住宅がつくられ、一時は600世帯が暮らした町でもあった。土地を接収し公園計画を進めたい行政との50年以上におよぶ長い折衝を経て、現在は2023年オープンの予定で公園の整備工事が進められている。この作品は、そこに残った最後の一軒の家をめぐるものである。その家を模した構造物の外壁には、追廻の元住人たちへのインタビュー映像や、追廻についての年表や空撮写真などの資料が貼り出され、内側では、川縁に立つ最後の一軒の家のなかを、鎧武者や軍人らしき亡霊がともに片付ける映像が流れる。映像のナレーションは家の主人によるものだ。戦後の復興過程で発生したこの土地問題は、長い時間が経過しているがゆえに整理しきれない理不尽さが澱のように残っている。佐々は、たんなる行政批判としてではなく、その澱のようなものが、公園化によって不用意に舗装されて隠蔽されないようかたちに残している。
亡くなった父親の遺品のなかに写真の抜け落ちたアルバムがあった。撮影された日付や場所名は記載されていたが、写真だけがなくなっていたという。この展覧会で阿部明子は、現在の家族を撮影した写真によってその欠落を埋めようと試みた。それは父という他者の記憶を語る=騙ること、虚構的につくり上げていくことである。これまでも写真を用いて複層的に視覚的な記憶を表現してきた阿部だが、近年はその主題はより家族に焦点化されている。証拠写真ではなく虚構の記憶としての写真創作は、家族だからこそ可能なイメージの作業である。亡き父の記憶を日々の生活のなかで紡ぎ、現在の家族に受け渡そうとする終わらない儀式。その副産物としてのイメージ群は、過去から現在への時間軸も、真偽の壁もとりはらわれた、匿名的でなおかつヴァナキュラーなものである。膨大なそれらの集合による展示空間は、他ならぬ記憶装置としての「家」そのものを形成した。
工藤夏海は、2015年頃から手づくりの人形による即興劇「まちがい劇場」を始めた。これは、工藤と参加者、あるいは参加者同士によって、一切のシナリオを持たずに完全な即興でおこなわれるものだ。そして路上でもカフェでも場所を選ばず開かれる。本展では、このまちがい劇場で用いられるさまざまな人形たちを卓上に展示した。工藤のつくる人形は、簡易なもので精巧にできているわけではない。ただ、その顔は実に多彩で魅力的である。人形劇に用いられる以上、無表情につくってあるのだが、そのことすら人形が意識しているようにみえるほど、それぞれのキャラクター性が際立っている。見る者の自意識を投影する人形の性質を生かした対話の試みは、個別の生への好奇心や親愛に根ざしている。まちがい劇場では、わたしたちが日常のなかに抱えている小さな我慢を人形たちが肩代わりしてくれるのである。また意図的に「まちがう」ことは不可能であるがゆえに、まちがい劇場で繰り広げられる一期一会の会話や出来事のすべてが演出効果となり物語を紡いでゆくのだ。
映像技法を学び、歌による表現を行ってきた磯崎未菜は、2018年から仙台を拠点とし、「NOOK」(*3)にも参加している。本展では、3人の女性の視点から、時代の象徴としての子守唄や流行歌などの6曲の歌と、時代への鎮魂歌のような新曲を通して、1930年代から現在までの数十年間をたどる映像作品を発表した。亡き大叔母、母、その娘が、3部構成の戯曲によって、昭和から令和までを3つのスクリーンで物語る。歌はまず聞いて覚えやがて口ずさむものだ。子守唄であれ大衆歌であれ、たとえ直接歌わなくても記憶した歌に想起される過去とともに、自分だけの歌になっていく。そうした歌による想起が集団性を帯びることを再確認できるという意味では、カラオケBOXも好例かもしれない。磯崎は作品の最後に、声が、声の記憶だけが残されると歌い、歌による過去の語り継ぎの可能性を示している。
佐藤徳政は、震災後に郷里の陸前高田に戻り、復興工事の巨大な流動のなかで暮らしながら、地域の祭りの再興や、かさ上げで埋められる旧跡の記録を行ってきた。メディアテークの「3がつ11にちをわすれないためにセンター」(*4)にも参加して、それらの映像記録を残している。本展では、震災と復興工事で変貌した故郷の街を舞台として創作した絵本『ダイアモンドフロッグ』と、その物語に登場するキャラクターグッズのキオスクなどで構成されたインスタレーションを展開した。一部のグッズはウェブサイトやメディアテーク館内でも販売されている。デザインを学んだ佐藤は、クリエイティブ集団「FIVED」を結成して活動しているが、今回の展示のために彼らとともに新ブランドである「互」を立ち上げ、この先も郷里で暮らしていくための集団的な創作をおこなっている。佐藤の試みは、被災の記憶を抱えながらも、当事者性を他者に開こうする未来に向けたプロジェクトなのである。
是恒さくらは、一貫して鯨や漁労にまつわる文化を調査し、自らの表現に転化して発表している。本展では、これまで制作してきた鯨についての語りや伝承を綴った刺繍や小冊子とともに、蛍光糸の刺繍によって、鯨骨生物群集のイメージをあわらした。鯨骨生物群集とは、鯨の死骸をめぐって海底で形成される生態系である。巨大な鯨が死後につくり出すコロニーへと思いを馳せることで、人と鯨の交わりもその連鎖の一部にあることを意識させる。是恒にとって、鯨は広大な海の象徴であり、また大きな他者性の象徴でもある。聞き取った話から言葉をつむぎ、刺繍によって布にふたたび織り込む作業によって、どこかの漁師町で誰かが、また太古から、そうした大きな他者としての自然と、どうにか関係を結びながら営みを続けてきたことを伝えようとしている。その関係構築の技こそ、是恒が現在に再提示しようとしているアートであると言えるだろう。
陸前高田や仙台に住みながら活動してきた小森はるかと瀬尾夏美は、震災に関する聞き取りの経験から、思春期手前の11歳という年齢が、人生の重要な時期だと認識した。そのことから今回は、92歳までの幅広い年齢層65人に、11歳の思い出を聞きテキストや映像にまとめた。そうして年代ごとの11歳の記憶を集めて展示することで、仙台や宮城といった地域の、また昭和から令和までの日本社会の年代記を浮かび上がらせた。「自分史」作成の元祖とも言うべき色川大吉は、世界大戦を挟んだ国家単位の大きな物語のうねりに個人が巻きこまれ、小さな視点での日常的な記録が損なわれることの危惧から自分史作成を提唱した。SNS時代になり、個人視点の記録はネット空間のなかに無数に蓄積されているが、結果的に断片化が進み、歴史物語として集合させて確認する機会はなくなっていると言えるだろう。小森と瀬尾は、それを可能にする場所と機会としてメディアテークと本展を位置づけている。
展示の最後を締めくくるのは、ダダカン連である。ダダカン連は、仙台在住であった前衛芸術家、糸井貫二(ダダカン)(*4)の活動を記録し、資料を保存しようとする有志集団で、前衛美術の研究者である細谷修平、元・宮城県美術館学芸員の三上満良、仙台のギャラリー、ターンアラウンド主宰の関本欣哉、アーティストの中西レモンによって構成されている。それぞれ長年にわたって糸井との交流を持っており、細谷はメディアテークの地域文化アーカイブ活動である「メディスタディーズ」に「仙台ダダ」として登録し、記録活動を続けてきた。多くの美術関係者が訪問してきた糸井の自宅「鬼放舎」は、まもなく道路拡張工事によって取り壊されようとしている。そこに残されたさまざまな資料を整理して、保存できる状態にしようというのが趣旨である。本展では、糸井本人を含む関係者のインタビュー映像や数々の資料を、鬼放舎の間取りを模した空間のなかで展示した。日本の現代美術史上の歴史的人物でありながら、仙台では黙殺されてきた糸井貫二であるが、ダダカン連は、カリスマとしてではなく、仙台地域で活動してきた一人の美術家としての姿を伝えることに焦点を当てた。
長くなったが、以上が展示の内容である。いずれの表現も、「現在」を先端的な表象として切り取ろうとするのではなく、過去と未来の結節としてとらえていると言えるだろう。情報通信技術によって引き伸ばされた現代を反復するよりも、語り継ぎを試みることで現れてくる「いま」がある。本展はそうした同時代性への言及方法の提示でもあった。
*1――「亜炭考古学~足元の仙台を掘りおこす」は、2012年から2016年にかけて実施された。その成果は、市内の横丁の一画を仮設ギャラリーにして展示されたほか、メディアテークでの展覧会「山のひかり、川のほし」(2015年)で発表された。https://artnode.smt.jp/atanblog/index_5.html
*2――菊池はアートコレクティブである「PUMPQUAKES(志賀理江子、清水チナツ、佐藤貴宏、長崎由幹)」にも参加している。https://www.pumpquakes.info/
*3――「一般社団法人NOOK」は、2015年に結成。震災後の東北地域の記録や、対話の場を開く活動を企画・実施している。現在のメンバーは、瀬尾夏美、細谷修平、小森はるか、佐竹真紀子、中村大地、磯崎未菜。http://nook.or.jp/hp/
*4――「3がつ11にちをわすれないためにセンター」は、2011年にメディアテークが開設した震災後の地域社会を記録する活動のプラットフォーム。佐藤による記録は以下から検索できる。https://recorder311.smt.jp/
*5――惜しむべきことに糸井貫二さんは昨年(2021年)12月にご逝去されたが、ご家族とともに本人に本展をご覧いただけたことは僥倖だった。謹んでご冥福をお祈りいたします。