20年以上の歴史に幕。「星の王子さまミュージアム」を振り返る
そんな同館は、新型コロナウイルス感染拡大と建物の老朽化などを理由に、2023年3月31日に閉館する。多くの人が惜しむ声を寄せるなか、長年愛されてきた同施設の魅力を振り返ってみたい。
星の王子さまに迎えられてゲートを抜けると、『星の王子さま』の番号ごとに異なるイラストがプリントされたチケットが手渡されてきた。
迷い込むように進んだ先には、ガーデンデザイナー・吉谷桂子がプロデュースしたヨーロピアン・ガーデン。「星の王子さま」とバラが並ぶ光景が、世界観を伝えている。
フランスの街角のようなショーウィンドウが並ぶ通りで歩みを進めれば、じきに展示室の入り口が見えるだろう。ただし、展示室内は撮影禁止となっており、その景色は来場者の思い出のなかに仕舞い込まれてきた。ここでは文章のみでその様子を振り返りたい。
展示の導入は、400インチのスクリーンで堪能するサン=テグジュペリの生涯と『星の王子さま』の物語を紹介した映像。お皿や肖像画が飾られた階段を登れば、再現された幼少期を過ごしたサン=モーリス・ド・レマンスの子供部屋に到着。現存するおもちゃも用いられたこの展示は、ファミリーツリーや写真とともにサン=テグジュペリという人間を生き生きと感じさせてきた。
1921年に民間飛行操縦士免許を取得したサン=テグジュペリは、路線飛行士を経て、1927年からはスペイン領サハラ砂漠の中継基地キャップ・ジュビーに飛行場長として赴任。外交的な役割期待されたこの異動によって、『星の王子さま』の狐のような孤独な生活を余儀なくされながらも、処女作『南方郵便機』(1927)が生まれたことは、タイプライターや地球儀が配置された滞在部屋のイメージ再現からも伝えられてきた。
展示室をつなぐ洞窟のような通路は、じつはスタンプラリーのポイント。続く書架のような佇まいの展示室では、『星の王子様』でバラに薔薇に重ねられるコンスエロ・スンシンとの結婚にフォーカス。1929年にはアルゼンチン郵便飛行会社の事務所で支配人として働くようになり、その後『夜間飛行』(1931)を執筆した。
当時の生活は贅を極めたものだったが、これは長くは続かなかったという。1935年には、賞金を目的にパリ-サイゴン間の長距離飛行に挑み、リビア砂漠に不時着するも奇跡的に生還。ショッピング街に仕立てられた展示空間が、来場者に贅沢暮らしの当時を想像させてきた。
その後、アカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞した『人間の大地』(1939)や、戦争の勃発に伴う初の「出撃」を挟んで刊行された『戦う操縦士』(1942)の誕生経緯を伝える展示が続く。
誰かの声に誘われるように通路を進むと、『星の王子さま』(1943)を執筆したニューヨークの高層マンションの再現展示が待っている。流れる音声はサン=テグジュペリ本人のフランス語で、ここで多くの立ち止まり、耳を澄ませる人も少なくなかった。
さらに、『星の王子さま』の原画や手書き原稿も盛りだくさん。アメリカで出版されたものと、約3年後に刊行されたフランス版の色彩比較は、国内外の来場者の目を奪ってきたことだろう。
最後の展示室は、来場者にもその突然の死を思わせるモノクロームの空間。『ある人質への手紙』(1943)を出版し、『城砦』の執筆を再開してから間も無く、写真偵察飛行に出撃したまま還ることのなかったその死は、多くの人が知るところだ。
展示室には、サン=テグジュペリの友人で『ライフ』誌のカメラマンだったジョン・フィリップスが撮影した生前の写真が、展示というかたちで語られた物語を締めくくるように並んでいる。
ゲートを抜けると、青い空間に飛行機と星々が見え、壮大な音楽が流れる。階段を下れば、バラや狐など『星の王子さま』の登場人物が勢揃い。夢の中ような空間から、世界中で刊行された『星の王子さま』が並ぶ部屋を通して、徐々に現実の世界に戻ってくるという構造になっていた。
加えて、サン=モーリス・ド・レマンス城(再現)や教会、ミュージアムショップ「五億の鈴」やレストラン「ル・プチ・プランス」も、展示とはまた違うかたちで『星の王子さま』の世界観を感じられる接点をつくり出し、来場者の記憶を彩ってきた。
あいにくの雨となった訪問日にも、園内には多くの来園者の姿。家族連れが目立つがその年代は様々で、世代間継承されるようなミュージアムだったことを改めて感じられた。
多くの人に愛された「星の王子さまミュージアム」。いつでも会いに来れないとわかっているからこそいっそう、同館が伝えてきた世界観や「目には見えないもの」を大事にしようというメッセージを強く、胸に留めることができたのだろう。