親族が原爆で犠牲 青のドレスに黄色いストール、今こそ歌う無念
◇戦争のない世界を ウクライナ憂う
「ウクライナに思いを」。4月1日夜、小倉北区で開かれた小倉ロータリークラブの例会。鮮やかな青のドレスに黄色いストールをかけた、ウクライナ国旗と同じ色合いの装いでステージに立った。春らしい選曲のプログラムを歌い上げた後、アンコール曲に選んだのは、作家の故なかにし礼さんが核兵器のない世界を願って作ったメッセージソング「リメンバー」。手話も加えて「リメンバー ヒロシマ ナガサキ」と繰り返す歌声が会場に力強く響いた。
広島県出身。祖父の豊さん(1983年に80歳で死去)のきょうだいは、9人のうち男6人全員が広島を中心に活動する能楽師だった。長兄の弥左衛門さん(78年に78歳で死去)は後に人間国宝となった。
豊嶋さんが身内を襲った原爆のことを聞いたのは5、6歳のころ。祖父の3歳下の弟で、高安流ワキ方として活躍していた要之助さん(当時39歳)は、1945年3月の東京大空襲で焼け出され、実家のある広島にいた。家は爆心地から2キロ以内。「当時下関にいた祖父は、すぐ弟を探しに広島に入ったが見つからず『遺品だけでも、という思いも叶わなかった』と聞いた」。末弟の文二さん(同31歳)も広島の陸軍病院に入院中に被爆して14日後に死亡。下から2番目の弟の永蔵さん(同34歳)は7月にフィリピンで戦死した。
豊嶋さん自身は北九州に移り、明治学園小5年の時に出会ったオペラに魅了され、歌の道へ。ヨーロッパを中心に活動し、北九州市文化大使も務める。舞台に立つたび感じるのは、表現できるありがたさ。「芸術家として自由を奪われるようなことがあってはならないし、国境を越えて発信できたらうれしい」
そうした中で続くウクライナ侵攻。ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用をにおわせる姿勢に「先祖を思うと、私まで脅されたよう」と憤りを覚える。ルーツの広島への思いは深く、2019年から、高齢化する被爆者の証言を受け継ごうと広島市が実施する「被爆体験伝承者」の養成研修に参加している。今夏には寿山市民センター(小倉北区)で、次世代の立場から戦争を語る講話も予定している。「要之助さんたち親族は今の私のように活動できず、悔しかったと思う。だからこそ、自分がいただいたチャンスを大事にしたい」