【書評】坂本龍一の音楽はどのようにして生まれたのか:坂本龍一著『音楽は自由にする』
3月28日、世界的な音楽家である坂本龍一氏(以降、敬称略)が逝去した。享年71。本書は、自らの半生と音楽への想いを克明に語った初の自伝である。数々のミュージシャンに影響を与えた彼の音楽はどのようにして生まれたのか。彼が遺(のこ)した言葉をたどって、そのエッセンスを紹介してみる。
本書は、月刊誌『エンジン』に27回にわたり連載されたインタビュー記事(2007年1月号~09年3月号)をまとめたものだ。ときにユーモアをまじえ、真摯(しんし)に半生を振り返る。むろん、音楽だけではなく映画や文学の趣味嗜好(しこう)、ライフスタイルについても率直に明かしており、彼の人となりを知る上でも興味深い内容になっている。
本書前半の読みどころは、エピソード満載で語られる若き日の音楽体験にある。坂本龍一の音楽の原型は、本人によればおおむね「高校生活の終盤」の頃までに「できあがっていた」という。彼は「解体の時代」と語っているが、
「ぼくは学校や社会の制度を解体するような運動に身を投じていたわけですが、同時代の作曲家たちも、既存の音楽の制度や構造を極端な形で解体しようとしていた。西洋音楽はもう行き詰ってしまった、われわれは、従来の音楽でブロックされた耳を解放しなければならない、そんなことをぼくは考えていました。」
「そういう思いが自分の音楽として具体的な形をとっていくのはまだ少し先のことですが、問題意識自体は、今とあまり変わらないものを持っていたように思います。いまのぼくと、一直線につながっている。」
そこに至るまでにどういう音楽遍歴があったか。彼と音楽との最初の出会いは、幼稚園の「ピアノの時間」でピアノを弾き、飼育していたウサギの曲を作ったことだった。小学生になると、母親のすすめで著名な教師についてピアノを習うようになる。彼の父親は出版社の編集者で、母親は「進歩的な人」であったという。叔父はかなりの音楽愛好家で、いろんなレコードを聴かせてくれたというから、家庭環境は重要な要素であったのだろう。
その頃から、ピアノのレッスンを通じて楽譜の読み方、音楽の聴き方を理解するようになり、ポップスや歌謡曲も聞いていたけれど、クラシックのバッハが大好きだった。区立の中学校に進むと、ピアノ教師のすすめでいきなり東京芸大の「作曲家の大先生」に作曲を習うようになる。ビートルズやローリングストーンズを「かっこいい」と思い熱中するけれども、衝撃を受けたのはドビュッシーの弦楽四重奏を初めて聴いたときで、「自分はドビュッシーの生まれ変わり」と思い込むほど夢中になっていたという。
都立新宿高校に進学すると、ジャズ喫茶に入り浸り、学園紛争にも首を突っ込んでデモに出かけたが、週1回の作曲の勉強は続けていた。高校の先輩にあたる東京芸大OBの作曲家・池辺晋一郎氏を訪ねると、
「そのときに、『どんな曲を作ってるの?』と訊かれたので、『こんな曲です』と弾いてみせたら、『芸大の作曲科、今受けても受かるよ』と言われたんです。ぼくはもう、『しめた!』と思いましたよ。『世の中けっこう甘いぜ!』と。高校1年、16歳のときです。」
高校生のときに、ジョン・ケージによる現代音楽と出会ったことが、その後の彼の方向性を決定づけた。芸大の作曲科に進むものの、坂本もまた当時の学生運動が燃え盛っていた時代の空気と無縁ではなかった。
それが冒頭に紹介した発言となる。既存の西洋音楽は「もうデッドエンドだ、この先に発展はない」と感じていた坂本は、「とにかく民族音楽と電子音楽は学び倒してやろう」と決意し、保守的な作曲科の授業にはほとんど出席せず、アングラ演劇や日比谷の野外音楽堂で行われるロックコンサートに出入りしたりもする。
大学3年のときに最初の結婚をし、子供が生まれたことが、彼の音楽活動にとって転機となった。生活費を稼ぐために、ピアニストのアルバイトをする。それが縁で、フォークやポップスのミュージシャンとの人脈が広がり、山下達郎や大瀧詠一、矢野顕子、のちにYMOを結成することになる細野晴臣、高橋幸宏と出会うのだ。坂本による人物評は面白い。ファンなら大喜びする語りの連続である。