織田信長が「茶道具」の価値を変えた……中国で飲まれていた「お茶」が日本の「茶道」になるまで〈dot.〉
今から二千余年前の中国で飲まれていた「お茶」は、どのようにして現在の日本の「茶道」になったのか。その過程では、織田信長、千利休などのキーパーソンがさまざまな変化を起こしていた。著書から抜粋する形で紹介したい。
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お茶についての最古の記録は紀元前1世紀の中国南部。詩人・王褒の『僮約(どうやく)』に、「茶を買う」などと書かれており、当時から喫茶の習慣があったと考えられます。
隋(581~618年)から唐(618~907年)の時代にかけて、喫茶の習慣は中国全土へ拡大。そのさなか、世界初の茶の専門書『茶経』が文人・陸羽によって書かれた。この時代には「餅茶(へいちゃ)」といって、茶葉を蒸して臼でつき固め、乾燥させたものを削って粉末状にし、塩をいれた湯で煮立てて飲んでいました。
宋(960~1279年)の時代になると、餅茶の製法が複雑化して「団茶(だんちゃ)」などと呼ばれるようになり、嗜好(しこう)品として文人や富裕層へ広まっていきます。彼らはお茶を飲みながら書画詩歌を楽しみ、ときにはお茶の色や味、香りを競い合う「闘茶(とうちゃ)」をおこないました。茶葉の粉末に湯を注ぎ茶筅(ちゃせん)で混ぜて飲む「抹茶法」がはじまったのもこの頃です。のちに宋で禅宗を学んだ栄西によって日本に伝えられ、現在の薄茶点前のもとになりました。
日本で最初に飲まれたお茶は、平安時代初期に遣唐使が持ち帰った餅茶だと考えられています。薬として天皇に献上されましたが、広くは普及しませんでした。