李禹煥が語る「Lee Ufan Arles」。パリのアトリエにて
Arles」が、南仏アルルの旧市街に開館した。李の美術館は、直島(2010年)、釜山(2013年)に続き、世界で3つ目となる。積層した歴史的な時間を内包した展示空間は、重要文化財にも指定されている16~18世紀に建てられた私邸であり、建築家・安藤忠雄の助言を得ながら改修が進められてきた。
韓国、日本、フランスの間を行き来しながら作家活動を展開してきた李は、まさに現代のグローバル化した流動的世界を生きるノマドを体現する芸術家のひとりだ。思想、生き方、著作、作品、美術館──それらの間を貫く時空を超えた深い哲学に基づく芸術実践の連続性と普遍性は、言葉ともの、選択と配置、アクションと定着、構造と現象、反復と回帰のあいだをゆっくりと往還しつつ、存在と時間をめぐる世界のあり方を提示し、観者の意識を覚醒し、より深い思索の旅へと誘う。李は、約半世紀にわたって、パリをヨーロッパにおける作家活動の拠点としてきた。このインタビューでは、李禹煥とパリ──その出会いと関係性について、また南仏アルルでの個人美術館設立へ至った経緯、そしてアリスカン墓地での展覧会について、話を聞いた。
李禹煥とパリ──その出会いと関係性
4月末、パリ市内某所にある李のアトリエを訪ねた。かつてその界隈には、ピカソやブラック、ドガなどもアトリエを構えていたという。扉を開け、敷地内に入ると、通りの喧騒を忘れさせるほどに、静寂に包まれた緑の中庭がある。爽やかな春の日差しとほのかな風を感じながら、さらに奥へと進むとアトリエに到着する。広くはないが、北側に窓がある、天井の高い、典型的なアトリエ空間である。李はこの場所を20年ほど使っている。ニナ・リッチ元社長夫人が所有していたスペースで、これまでも数多くのアーティストが住んでいたという由緒あるアトリエだ。それまではパリ市内の色々な場所を転々としていたが、あるとき「部屋に空きが出るので、とりあえず、ここに居てもいいよ」と言われ、結局、長く居座るようになったという。
「1971年、第7回パリ・ビエンナーレのときに、初めてヨーロッパに来たんです。その時の縁で、いろんな知り合いができました。例えば、ジョルジュ・ブタイユが総監督で、その下に、後にポンピドゥ・センター館長になったアルフレッド・パックマン、そしてダニエル・アバディという方が働いていましたが、その助手の二人とは、71年以降、ずっと付き合いがあります。また、アーティストでは、ダニエル・ビュランやクロード・ヴィアラも作品を出していて、彼らとはいまだに付き合いがあります。ただ、僕は大学で勉強したのもほとんどドイツ系だったし、フランス語も習わなかったから、フランスに最初はそれほど関心がなかった。72年を除いて、73年からずっと毎年ヨーロッパに来るようになったけれども、70年代半ば頃から2000年頃まで、私の仕事の活動の舞台は圧倒的にドイツだったんです。でも、絶えず、パリ経由でドイツに行っていたんです。その後、フランスでの展覧会が少しずつ増えてきて、気がついたら、ドイツでの展覧会が途絶えるようになって、次はフランスが多くなったんですよ。どうしてそうなったのか、僕も全然わからないんですけれども。おそらく、さっき言ったパリビエンナーレからの知り合いのアーティストや美術館関係者を中心に、僕に関心を持つ人が増えてきたからかもしれません」。
南仏アルルでの個人美術館「Lee Ufan Arles」の設立へ
1960年代後半以降、李を取り巻いていた高松次郎、関根伸夫、菅木志雄ら、もの派の作家たちは、当時の日本の高度経済成長を背景に、急速な国際化と世界同時性を体現するかのように、国内のみならず、パリ、ヴェネチア、サンパウロ、ドクメンタなど、現代美術界の主要な国際美術展において次々とデビューを果たした。その結果、個人レベルで評価を得るとともに、各地で国際的ネットワークを築いていった。李はそうした時代の空気に後押しされたのだろうか。1973年以降、毎年、パリを拠点、あるいは経由しつつ、数ヶ月から半年間をヨーロッパで過ごすようになった。この決断は、その後の李のキャリアを大きく決定づけ、以後、作家活動を支える重要なルーティーンの一部となる。それにより、ヨーロッパおよびアメリカにおける彼の支持者やパトロンを少しずつ増やすことへとつながり、ニューヨークでの財団設立、そしてフランスへの移転へと至る。
「今から十数年前、ニューヨークに李禹煥財団ができました。直島のオープンととほぼ同じ頃。ニューヨークはみんなギャラリーがアーティストに財団をつくらせるんですよ。実際には、アーティスト自身が作るんじゃなくて、その関係者たちが出資してつくるんです。それで、僕もつくってもらった。その後、彼らがアメリカで場所を探してくれたり、色々と模索していたんです。ちょうどその頃、フランス人のミシェル・アンリッチっていう、マルセイユ美大の校長をやったり、マーグ財団美術館の館長をやったりした人がその話を聞きつけて、フランスにこの財団を持って行くのはどうかという話が持ち上がりました。ドイツも考えたんですけれども、ドイツで所属していた画廊はもう主人が引退して別の人がやっていて、ちょっと僕との関係性が薄くなりつつあったんですね」。
マルセイユ生まれの美術史家・美術評論家ミシェル・アンリッチ(1945~2018)は、パリで文学と美術史を学び、文学の教師としてキャリアを始める。1970年代には、パリの偉大な知識人たち、哲学者ジャン=フランソワ・リオタール、作家ロラン・バルト、精神分析医ジャック・ラカンらとも交流し、1979年に詩人・美術評論家ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルが創刊した雑誌『Artistes』に参加したことをきっかけに、本格的に美術評論の仕事を始めた。ディジョンとマルセイユの美術学校で教鞭をとった後、「舞台美術は現代美術の核である」と考え、2002年モナコに舞台美術学校を設立した。また2006年から2009年までマーグ財団美術館の館長をつとめた。李の良き理解者であり、南仏に豊かなネットワークを持っていたアンリッチ氏が、アルルへの扉を開いたのである。
「2013年、アルルで結構大きな展覧会をやりました。会場は古くて大きな教会を改修した建物で、ACTES
SUDという出版社から厚い作品集・画集を出してもらったりね。まあ、色々なことをやって、アルルと行ったり来たりしているうちに、この土地に情が湧いたっていうか。アルルっていう街は通ってみると、コンパクトで小さいんだけれども、知れば知るほど、時間の重みを感じる街なんです。ローマ文化の宝庫であるとか、博物館も小さいのがたくさんあるんです。あまり知られてないものがいっぱいあって、その未知に惹かれる。それから、アルルに滞在するときは、いつもローヌ川の土手を毎朝散歩したりするんですが、すごくいい感じなんですよ。悠久な流れですが、華やかでもなければ、どちらかというと少しうらぶれた感じなんですね。悠然として素朴な感じが僕には良かったのかも知れない。古い野外劇場やコロシアムなども残っているし。建物は、ミシェルが見つけてきて、いろんな人に見せて、了解をとって、一番最後に僕を連れて行って『どうだね』みたいな。僕は、自分ではそういうものを見る目はそれほどあると思えないんだけど、まあ、初めはよくわからなくて、説明を何度も聞くうちに、非常に古い18世紀の建物であることを理解しました。元々、そこからいろんなものが出てきた家なんだそうです。リノベーションをやるたびに、いろんなものが発掘されて出てくる。今回も床下を掘ったら、王様の頭部像が出てきたんですが、それは平和の象徴なんだそうです。それは、僕にとっては守護神みたいな感じで。偶然なんだけども。そうしたミシェルやACTES
SUDの説得や協力もあり、最終的にアルルでオープンすることになったんです」。
アリスカン墓地での展覧会「レクイエム」
現在、アルルでは、李の個人美術館 Lee Ufan Arles
のオープンだけでなく、その近くに位置するアリスカン墓地でも2021年10月から2022年9月まで展覧会「レクイエム」が開催中だ。ユネスコ文化遺産に指定されて40周年の記念行事の一部であり、5~6年前から準備が進められてきたプロジェクトだという。アルル市にとっては初めての企画展で、李のベルサイユ宮殿での個展の評判や、パックマンや美術館関係者による後押しもあり、李が選ばれた。アリスカン墓地は、古代から中世にかけて拡大した墓地で、市内に点在する世界遺産「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」の一部として登録されている。19世紀には、ゴッホやゴーギャンもこの墓地を描いた。
「本当にいい勉強になった。初めは戸惑って、こんな墓場で、しかも僕は異邦人で、フランス人でもなければ縁故のある人でもないのが、何ができるんだろうと思って。すごい懐疑的だったんだけれども、3ヶ月くらい通っているうちに、もうすっかり慣れちゃって。初めはやはり、重いし、暗いし、なんかもう気持ちの悪い場所でしたよ。崩れかけた石棺だの、いろんな破片がそのまま投げ出されていて、教会の中も非常に陰気な感じでした。今回、展覧会のためにある程度整理したりしたんです。それをやっているうちに、本当に不思議な経験なんですが、その陰気さとか胡散臭さとかを全然感じられなくなってきて、暖かいけれどがらんとした両義的な空気になじんでいきました。僕もそういうの初めてで、初めは幽霊が出るんじゃないかと思ったんだけども、そうこうしているうちに『出るんなら出て来い』と思った。それに、よく考えてみたら出るわけがない。もう1000年以上も経っていて、17世紀までは機能していたらしいんだけれども、何もない。もうとっくに死者たちの霊だって、みんな飛んでいってしまったような感じですよ。毎日夕方になると、わざと中で一人でジーッとしたりしていたり。だんだんと好奇心が湧いてきて、それでもね、気持ちが落ち着いてね。非常に、穏やかな気持ちになるんです。最初はとっても不安だったんだけども、そういう感じは無くなりました。死の空間としては、本当に穏やかで、とても平和な感じ、不思議な経験をしました」。
このプロジェクトの舞台となったアリスカン墓地は、アルル市内に点在する古代ローマ時代に建てられた円形闘技場、古代劇場、地下回廊とフォルム(公共広場)、コンスタンティヌスの公衆浴場、サン=トロフィーム教会など、世界遺産の一部である。古代と現代が交錯する街アルルには、毎年多くの観光客が訪れる。古代ローマへのタイムスリップを楽しみつつ、黄色いシンボリックな「カフェ・ヴァン・ゴッホ」(ゴッホ《夜のカフェテラス》(1888)のモデルとなった)のテラスで、新鮮な食材を用いた郷土料理やワインに舌鼓を打ったり、街灯に照らされたローヌ川の土手を歩きながら、かつて19世紀のゴッホが見た、あるいは現代の美術家・李が見た風景を重ねたりする。そうした幾重にも重なる歴史・物語を想起させる街とそこに流れる豊穣なひとときは、旅行者を真の旅人に変える。
「展覧会タイトルは『レクイエム』ですが、これは初めの頃の仮タイトルから変わっていません。最初は重い気持ちだったんです。でも、展覧会を組み立てているうちに、ああ、これはレクイエムじゃなくて祝祭っていうか、ひとつの祭り、死者と生きる人たちが出会って祭りをするような、そういう感じにすればいいな、っていうふうにね。それは、僕にとって明るい方へ展開できたんですね。墓場でだんだん自分が明るくなっていくっていう、すごい変だけれども、普通はあり得ない面白い経験をして、僕はアルルがますます好きになったんです。それで安心して、展覧会のオープンができたという感じがしています」。