ゲーテ、ニーチェ、スタンダール……哲学者が考える、恋愛の「美」
現代思想の行きづまりを打破し、根本的に刷新する――。哲学者・竹田青嗣氏が、哲学のまったく「新しい入門書」であるとともに、「新しい哲学」の扉を開くための書を目指して書いたのが、現代新書の新刊『新・哲学入門』です。美醜をテーマとした同書の第10章から、容貌の美と「恋愛」について語った一部をお届けします。
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*他者の「顔」(容姿)の美の本質について、もう一つ重要な接近の道となるのは、美に打たれるという経験の象徴的な一典型である「恋愛」である。
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《彼女の顔は、昨日より一そう魅力がまして見えた。目鼻だちが何から何まで、実に細そりと磨かれて、じつに聡明で実に可愛らしかった。彼女は、白い巻揚げカーテンをおろした窓に、背を向けて坐っていた。日ざしは、そのカーテンをとおして射し入って、柔らかな光を、彼女のふさふさした金色の髪や、その清らかな首すじや、流れくだる肩の曲線や、やさしい安らかな胸のあたりに、ふりそそいでいた。――わたしはじっと彼女を眺めているうちに、彼女がなんとも言えず大切で、親愛なものに思えてきたのだわたしは、もうずっと前から彼女を知っていて、彼女と知合いになるまでは、何ひとつ知りもせず、生きた甲斐もなかったような気がした》(イワン・ツルゲーネフ『はつ恋』神西清訳、p23)。
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若者は、あるとき、他者が、言葉にしがたい独自の魅力をもって自分を引きつける存在であることに気づく、という経験に出会う。ここでは、他者の容姿が、はじめて「きれいなもの」に出会ったときに経験したあの本質性格、新奇さ、未知性、非日常性、エロス的可能性、背後的世界性への憧憬
(
しょうけい
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、といった諸性格をもって、しかしまた、大きく異なった仕方でもういちど現われ出る。 それだけではない。こうした場面で見出される他者の「美しさ」は、人に、あたかも「美しい」という言葉の真の意味をはじめて教えるかのような仕方で、もっといえば、自分が生きているのはこの「美しいもの」を知りそれに触れるためであったと気づく、といった仕方で現われるのである。
*思春期以降に人が遭遇するこの「他者」の美性の発見の体験を、スタンダールは、塩鉱に投げ込まれた枯れ枝が美しい塩のダイヤモンドの枝となる、「結晶作用」の概念によって鮮やかに示した(『恋愛論』(上)、前川堅市訳、p39)。
ここで「美」は、その人間的体現(化身)という独自の性格をもって現出する。しかもそれは、異性の愛らしさや魅力についてのはじめの気づき、という意味をもつだけではなく、むしろ「特定の誰か」に心を奪われる体験として、その本質性格をいっそう露わにする。
スタンダールは、第一のそれに続く「第二の結晶作用」の核心について、つぎのように語る。《哀れな恋人は「彼女だけが、この世でただひとり自分にたのしみを与えるだろう」とひしひしと感じる》(同前、41)。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテのヴェルテルもこうつぶやく。《私が――あのひとの夫! おお、われを造りたまいし神よ、もしもこの幸をめぐみたまわば、私は生くる日のかぎり、祈りを絶たないでありましょう》(『若きウェルテルの悩み』竹山道雄訳、p136)。
恋愛の欲望は、その対象を一目見たいから始まり、話したい、深く知りあいたい、触れたい、そして共に生きたいという欲望にまで進む必然をもっている。恋愛の情熱において欲望の対象となるのは、恋人のもつ美と美質であって、その「徳」(正しさ)ではない。まさしくこの場面で、「美」と「道徳」の本質の差異が明らかになる。
若者はその「自己理想」を、善きかつ正しき自己像の結晶化としてもつ。しかし恋愛における結晶化は、「善」や「正しさ」のそれではない。ここで他者が体現する「美しさ」は、恋する人間の内的ロマンの結晶体にほかならない。
人間のロマン性は自己の一回的な生への実存的な憧れであり、恋愛の結晶化は、この憧れを、現実にわがものとして生きうるという稀有な可能性、人間が本質的に潜めている「他者への欲望」の具現的な可能性の結晶化である。