天璋院篤姫が徳川存続をかけて戦った大奥最後の3カ月
天璋院篤姫は慶応4(明治元/1868)年4月10日、江戸城を退去した。翌11日、官軍が江戸城を接収し、大奥の歴史の幕も閉じた。同年1月3日に火ぶたを切った鳥羽・伏見の戦い以降、天璋院は大奥にあってひたすら徳川家の存続をはかるべく、迫り来る官軍に対峙した。それは徳川の「胤(たね)」を残すという大奥の創設趣旨を守ることでもあった。最後の3カ月を追う。
1月3日の鳥羽伏見の戦いから4月10日の退去まで、13第将軍家定の正室・天璋院は官軍と熾烈な駆け引きを繰り広げていた。
戦いが始まると、15代将軍慶喜は戦況が不利とみて大坂城から脱出し、海路で江戸に帰還することを選ぶ。10日には慶喜の官位は剥奪され、官軍は全国に追討令を出した。
江戸に戻った慶喜は12日、天璋院と面会し、14代将軍御台所の和宮と会って話したいと取り次ぎを願った。自分が退いた後の徳川家相続の問題を話し合いたかったと見られるが、和宮は面談を拒否。戦線を離脱した慶喜への不信に満ちていたからだ。
天璋院も、「二心殿=二心あり」といわれた慶喜を信じていなかったようだが、徳川の存亡に関わる一大事だけに和宮を説得し、15日に慶喜と和宮の面談が実現した。
慶喜は、朝廷に奏上したい書状を和宮に差し出し、受け取った和宮は内容を修正し、叔父にあたる公卿・橋本実麗(はしもとさねあきら)とその息子・実梁(さねやな)に送る。
慶喜は徳川存続を嘆願したのだろう。だが、修正されたくらいだから、朝廷に工作を願うには内容が不備だったことをうかがわせる。橋本実梁に届いたものの、大きな効果は期待できなかった。
15日には、官軍と一戦交えることも辞さなかった主戦派・勘定奉行の小栗忠順(おぐり・ただまさ)が罷免され、恭順を幕府の姿勢とすることで一本化。これによって①徳川の存続、②慶喜の助命、③江戸城総攻撃の中止の3つが、幕府の方針となった。
幕府はさまざまなルートを通じて、官軍に方針を伝えようとした。上野の輪王寺門跡を継いだ皇室の能久(よしひさ)親王が、官軍が駐在していた駿府城(静岡県)に赴くなどして交渉にあたったが、その甲斐もなく、3月15日に江戸城を総攻撃すると決定してしまう。
そんな中、天璋院は別のルートを探っていた。交渉の相手は西郷隆盛だった。