和歌山城再発見 二ノ丸と紀州御殿
元和5(1619)年、紀伊国の領主として和歌山城に入った徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)は、城郭の大増改築に着手します。
二ノ丸もそのひとつで、先の領主・浅野氏の御屋敷地西側に接する堀の一部を埋め立て、壮大かつ豪華な御殿を建てました。
平成7年、二ノ丸跡西端に建っていた県立図書館の撤去工事の際、25メートルに渡る埋没石垣が確認されました。
この石垣は16年の本格的な調査で、浅野時代の特徴を持つ「御屋敷」西側の堀に沿う石垣であることが確認され、二ノ丸の拡張が証明されました。
拡張された二ノ丸部分には、奥女中の生活の場である長局などが並ぶ「大奥」が建ち、その東隣には藩主専用の部屋と側近の詰所の「中奥」、さらに面会や儀式などを行う大広間を中心とする「表」(おもて)が隣接していました。
この「表」「中奥」「大奥」の配列は、江戸城本丸御殿と類似していることから、三尾功氏は自著『近世都市和歌山の研究』で「二ノ丸が江戸城本丸と同様の機能を果たす、城郭の中枢部であったことがうかがえます。その規模は、江戸城本丸御殿の1万1000坪の66%強に過ぎないが、将軍家を模したもので、藩の政庁として豪華な建物だった」と評しています。
「表」の建物は取り壊すには惜しいと、当時の政府が明治18年7月、大阪城天守閣前広場に移築しました。
「白書院・黒書院・遠侍の三建物、三百五十坪の書院造りで、豪華な障壁画で飾られていた」(松田茂樹著『和歌山城史話』)この建物は、以後「紀州御殿」と称され、陸軍第四師団の管理となります。明治、大正、昭和の天皇が大阪行幸時の行在所(あんざいしょ)にもなったとされますが、昭和22年の失火後は古写真でしか見ることができません。
しかし、西ノ丸跡に建つ「わかやま歴史館」で、いかに壮大かつ豪華だったかを「よみがえる和歌山城」のVR画像内でしのぶことができます。
近年、二ノ丸西側の発掘調査で礎石や漆喰(しっくい)池、水琴窟、また大奥中庭に位置する場所から石組池、玉石敷、飛び石、さらに穴蔵石組井戸、土塀基礎などが確認されました。
その位置は「和歌山二ノ丸大奥當時御有姿之図(文政八酉年二月改)」(和歌山城整備企画課蔵)とほぼ一致したそうです。
それらの出土遺構は埋め戻され、現在は見ることはできませんが、同絵図を説明板にして表示されていますので、出土位置を確認することができます。
つまり、二ノ丸跡は和歌山城の歴史が詰まったタイムカプセルなのです。(文・写真 日本城郭史学会委員 水島大二)