歴史ある「山崎別荘」 復元のはずが…解体後20年以上放置のわけ
◇皇室とも関わり、昭和初期の和洋折衷建築
山崎別荘が建っていた敷地は現在、「東船橋花輪緑地」として公園が整備されている。約5200平方メートルで東西に細長く、別荘は西側の高台にあった。市は既に取得していた東側部分に加え、1996年に緑地保全を目的に西側部分の土地も約10億円で取得し、建物は旧所有者の山崎家から寄付を受けた。
解体前に山崎家の聞き取りと現地調査をした「船橋地名研究会」の滝口昭二さん(86)によると、1907(明治40)年に都内の印刷会社の社長が別荘地として敷地を購入。その後、35(昭和10)年に都内で洋紙問屋を営んでいた山崎梅之助氏が取得し、山崎別荘を建築した。
別荘は木造3階建てで1、2階が和風建築、3階の一部が洋間となっていた。海を臨む3階は三面ガラス張りのサンルームだった。近くで育った滝口さんは、海辺からサンルームが太陽の光を反射していた光景を見たことをよく覚えている。
皇室とも関わりがある。皇族軍人だった賀陽(かやの)宮(みや)恒憲(つねのり)王が、旧陸軍の演習地だった習志野原練兵場(現在の船橋、千葉県習志野、同県八千代市)での演習に参加した際に立ち寄り、山崎家と撮影した写真が残されている。また、終戦間近の45年には、都内の宮邸が空襲被害を受けた閑院(かんいんの)宮(みや)春仁(はるひと)王が移り住み、仮の宮邸となる。「宮様との関係があって、山崎別荘は何となく近寄りがたい存在だった」と滝口さん。戦後は両宮家ともに皇室離脱している。
戦後は「観光荘」の名で料理屋や、地域の集まりなどに使われたこともあったという。
1990年代に入ると、マンション建築計画が持ち上がる。市は「住宅地に残された貴重な緑地を保全する」として土地を取得。建物の保存を求める市民の活動もあったが、構造や耐震性に問題があることから市は解体を決める一方、和室や廊下など建物の一部の保存を決定した。市民が休憩や利用できる集会所のような施設を整備し、そこに建物の一部を復元する方針だった。
市公園緑地課によると保存されたのは1、2階部分の和室計4室と玄関と廊下部分。建築材は当初、同市夏見台の市運動公園の旧管理棟に保管され、2010年に現在の下水処理場内に移されたという。
なぜ、今も保管されたままなのか。同課の記録によると、新たな建物を建設する場合、建築基準法に基づき敷地の前面道路を拡張しなくてはいけないことが障害になったようだ。
山崎別荘跡地の南側は石垣で囲まれている。元は砂丘地で崩れやすいため、山崎氏は多摩川原や筑波山の岩石を買い入れ、車で500台分も運ばせたという逸話が残る。石垣前の道路は車1台が通れるほどの幅しかないため、拡張するには石垣を壊す必要があるという。
同課によると、03年に当時の市長が地元地区で開かれた市政懇談会で「石垣をセットバック(後退)させる必要がある」と説明している。ただ、解体前に住民らに説明していたかどうかは不明だ。その後も地域住民らとの協議は続いたようだが、11年3月に地元から「(道路が広がって)交通量が増えるのは困る」「石垣は保存してほしい」との回答があったことが記録されている。
東船橋花輪緑地の整備は14年に終わり、建物の復元はされないまま翌年に一般開放された。その後、地域との協議が再開されるなど話が進んだ様子は同課の記録に残っていないという。
滝口さんは「四季いろいろの木々に囲まれている姿こそ、船橋の山崎別荘だと思う」と復元を望むが、同課の担当者は「現時点で明言できることはない」と言葉少な。近年は山崎別荘について市民からの問い合わせや要望などは来ていないという。