「服」で社会と戦い続けたふたり―森英恵と三宅一生は現代に何を遺したか?
現代のファッション業界において、その名を知らない人はいないほど、数多くの革新的なクリエイションを発信してきた。彼らを惜しむ声がファッション業界にあふれるなか、本記事ではふたりの軌跡を追懐するとともに、現代に残した功績をたどる。
森英恵は1948年、戦時中に出会った森賢と結婚。しかし、森は家で夫を待つだけの結婚生活に早々に飽きた。厳格な医者家庭に生まれ、志したアーティストの道を絶たれた過去の経験から、自分の決断で人生を歩んでいきたいとドレスメーカー女学院(現・ドレスメーカー学院)に入学し、洋裁を学ぶ。
卒業後の51年、家業が繊維メーカーで女性が働くことにも理解があった夫の後押しもあり洋裁店「ひよしや」を新宿で開業する。文化服装学院が位置し、後進のスターデザイナーも足しげく通ったその地で、彼女のキャリアはスタートした。
文化人が多く集まる土地柄も起因して、あるとき映画の製作・配給会社から衣装制作の依頼が舞い込む。それを境に1950年代初頭から70年代にかけて数百本に及ぶ作品の衣装を制作することになる。それぞれの監督が描く「女性像」を知ることで自身のビジネスにおける購買ターゲットを客観的に理解していくと同時に、シチュエーションや着用者のキャラクターを体現するデザインを学びオートクチュール(高級衣装)デザイナーとしての技術を習得していく。
1977年には、アジア人として初めてオートクチュール組合(※1)会員になり、「東洋人初のオートクチュールデザイナー」という偉業を成し遂げた。ファッションの域を超えた権威あるフランスの伝統文化であるオートクチュールに極東の日本人が認められた瞬間だった。
※1:フランス・パリでオーダーメイド一点物の最高級仕立服を製作する服飾店で組織される組合。正式に加入するには、パリに一定数以上のプロの技術者を抱えたアトリエを持つなどのさまざまな条件や審査がある。日本人で加盟したデザイナーは森英恵のみ