【書評】オーラル・ヒストリーの見事な結実 『上方落語ノート 第一集』(桂米朝 著・岩波書店)
さて、オーラル・ヒストリー(口述歴史)という言葉を最近よく耳にするようになった。近現代政治史の御厨貴東大名誉教授などがその分野で有名だ。表面に現れた、つまり文書化されたものだけでは、立法過程や政策成立過程などはうかがい知れない。それらの成立に関与した政治家や官僚の生の声を直接取材することによって、その「影」の部分を埋めようとする試みだ。
なぜそんなことを言い出すかというと、この『上方落語ノート』は、そのオーラル・ヒストリー(聞き書き)の見事な結実だからだ。実際、『花柳芳兵衛聞き書』『二代目旭堂南陵聞き書』という章がある。
そもそも米朝師匠は、落語の演者ではなかった。
大東文化学院(現・大学)在学中に演芸評論で有名な正岡容(まさおか・いるる)の一番弟子になっていることから、評論家を目指していたようだ。落語演者になるように勧めたのも正岡氏らしい。端正な容姿と巧みな話しぶりに感ずるものがあったのだろう。
そういう経緯があるためか、米朝師匠の落語はどこか知性的である。書いたものを読んでも、その知識の幅と深みが心地よい。
たとえば「人形買い」という落語を俎上にのせ、江戸時代の貨幣制を解く。
「その長屋は祝儀不祝儀、一軒前四十八文と決まっている。にも拘わらず神道者が子供のできた祝いに立派なちまきを配った。そうなると四十八文づつというわけにはゆかぬ。一軒前百文づつ集めると長屋が二十四軒あるから二貫四百文という銭ができる。それだけあれば人形でも買ってお祝いに贈ることができよう……という設定になっている」
集金係の長屋の2人は、二貫と四百文で二貫三百文の人形を買い、その差額の百文で酒でも飲もうと算段した。
ではなぜ四十八文ずつという半端な数字になっていたかというと、百文の半分は五十文ではなく四十八文だったからだ。江戸時代の百文は実際は九十六文で、一文銭96枚をその穴に紐を通して棒状にしたものを百文とした。これを俗に「コロリ」と呼んだらしい。
「近松の『博多小女郎』なんかにこの百文をコロリと言うことが出てくるから、よほど古い言葉であろう。『地獄八景』にも渡し銭を決めるところで、『コロリで死んだ』『そんなら百文』『どうして』『コロリと百じゃ』……」
コロリはコレラのことで、当時これに罹るとコロリと死んでしまうことからそう呼ばれていた。
米朝師匠はなぜ九十六文が百文として通用したのかは知らないとしながらも、次のように考える。
「これは四文銭(裏に青海波の書いてある上質の明和通宝、俗になみ銭という)ができた時からのことではないか……という文章をむかし読んだ記憶がある。一両は四分、一分は四朱、基本としての相場は四貫相場(一両が四千文)……と四で割り切れる計算になっていたようである」
さらに江戸時代の貨幣制度の複雑さを、「人形買」という落語の清八と喜六の会話で実感させてくれるのである。
「お前とこに銭二貫四百あいたのは無いか」
「二貫四百と言うたら天保銭(百文銭)で二十四枚でええか」
「それでも良え」
「ひょっと銅銭やったらどうや」
「それでもかめへん」
「文久銭やったらどうや」
「それでもええわ」
「二十一波銭(四文銭)ばっかりやったらどうやろ」
「それでもええがな」
「で、銅銭やらババ銭(鉄銭)やら文久やら二十一波やら、みんなまざってたらややこしい言うてお前怒るか」
「そんなこと怒らへん」
「二分金やったらどうや」
「ええがな」
「一朱八つやったらどうしょう」
「同じ勘定やがな」
「額(一分金のこと)二つやったら」
「何でもええがな」
「何にもないのや」
繰り返しの面白さに、最後の一言……。
さらにここに出てきた天保(てんぽう)銭について、もともとは百文だったが八十文に下落し、明治時代には八厘になってしまったとして、こう説明する。
「故桂文楽十八番の『つるつる』で、幇間の一八が、帯に金のクサリを巻いていて、いかにも金時計を持っているように見せかけているが実は時計はないので、クサリの先には天保銭が一枚つけてある。『一八さん、いま何時?』『いま八リン(八時)』……というところがあった。これはこの天保銭が八厘に当たった時代のくすぐりである。八厘 …… 一銭にちと足りぬというところから、少し足りない人間を天保銭という言い草もできた」
驚くべき記憶力と知識の広範さである。
さて落語に関して、以前から不思議に思っていたことがあった。
古典落語に、「岡っ引き」が全く出てこないことだ。時代小説は銭形平次や人形佐吉などの「捕り物帳」が数多くあるのに不思議である。
そこで手始めに『増補 落語事典』(東大落語会 編・青蛙房)という古典落語1260篇の梗概を約600ページに収めた大著を調べてみた。読むのではなく、「十手持ち・目明し・岡っ引き」という単語がないか探したが、見つからなかった。
『江戸落語便利帳』(吉田章一 著・青蛙房)も調べてみた。この本には巻末に索引がついていて、十手持ち・目明し・岡っ引きはないが、与力と同心があった。そして同心のあとに岡っ引きの項目を見つけた。最初に「江戸では目明しとは言わない」とあるが、そんなことはどうでもいい。それよりも、ページ下に「この落語でつかいます」という欄があり、町奉行では「一文惜しみ」以下30篇の落語の題名が、また与力・同心には「佐々木政談」以下3篇が書かれているのに、岡っ引きの下の欄には何も書かれていない。空白なのである。
最後に「落語・岡っ引き・十手持ち・目明し」をパソコン検索にかけてみた。すると「左の腕」他何件かがヒットしたが、いずれも松本清張など現代作家の短編を落語化したものだった。これではっきりした。古典落語には岡っ引きは登場しない。たぶん意図的に出さなかった。
その理由はたぶんこういうことだろう。
捕り物帳の中の親分たちは、気風がよくて正義感が強い理想的な江戸町人のように描かれている。だが実際はその逆で、「蛇の道は蛇」というか、犯罪者の中から選ばれた小悪人たちで、同心のポケットマネーで雇われていたのである。権力をかさに着て町人に因縁をつけては小銭をかせぐ鼻つまみ者だった。
だから、落語の中に彼らは登場しないのである。彼らを茶化すとロクでもないことになるし、聴いている客のほうでも、気晴らしに落語を聴きにきいているのに、不愉快な連中のことなど思い出したくもないはずだ。
これはぼくの勝手な解釈かもしれない。
そう考えて、この『上方落語ノート 第一集』にそれに関した記述がなされていないかと思って読んだが、残念ながら触れられてはいなかった。しかしあきらめるのには少し早い。この『上方落語ノート』は 第四集まであるのだから、これからはそれを見つけることも楽しみにして読んでいこうと思う。
【執筆:赤井三尋(作家)】