近代日本の「個の自覚」を目指す西田幾多郎がたどり着いた「一つの根本的立場」とは?
「経験するというのは事実其儘
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そのまま
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に知るの意である」(『西田幾多郎全集』第1巻9頁)。 西田幾多郎は『善の研究』(1911年)の本論の冒頭をこう書き出して「純粋経験」を論じている。だが、近代日本で最初の哲学書とされる同書の出版から一世紀あまりを経た現在、私たちにとって、この世界でさまざまな他者や事物と関わり「経験する」ということのあり方は、西田の時代からは大きく変化している。
また「事実そのままに知る」のが容易ではないこと、そもそも何が「事実」であるのかについてさえ、人々の間に合意を形成するのが難しい場合があることが明らかになっている。
私たちはICT(情報通信技術)が高度に発達した社会を生きており、他者と交流する際にも、さまざまな情報を収集する際にも、パソコンやスマホ(スマートフォン)などの電子メディアに大きく依存している。こうしたなかで、経験すること、事実を知ることの様式が大きく変わってきている。
ICTが発達した現在、インターネット上に溢
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あふ
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れるほどの世界の情報を手に入れたり、地域や世代を超えてさまざまな人々とSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で交流したりすることが容易になっている。 手元のスマホで海外のニュースを聴いたり、スポーツの国際大会の動画を見たりすることもできるし、遠くに住む友人や海外にいる知人と近況をやり取りすることも手軽にできる。またオンライン会議やオンライン授業も当たり前になり、コンサートなどのイベントが実際の会場とオンラインとのハイブリッドで開催されることも珍しくない。
電車のなかではほとんどの人が銘々のスマホを手にして覗
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のぞ
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き込んでいるし、デスクワークの仕事では、常にパソコンをインターネットにつないで情報収集やメールチェックをしながら仕事を進めているのが現状である。いわば私たちは、常時オンライン状態で他者と交流し、さまざまな情報を交換しており、「電子メディア時代」といえるような時代を生きている。
しかし、ICTの発達により、果たして人と人との連帯が強まり、人間関係が豊かになったといえるだろうか。SNSでは意見の近い者同士の閉じられたコミュニケーションによって世論の分断が進むことも懸念される。
SNSでの発信が集中的な非難を呼び起こす「炎上」もあれば、誹謗
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ひぼう
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中傷という他者攻撃が人の命を奪ってしまう事件も起こっている。インターネット上で自分が非難に曝
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さら
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されるかも知れないという不安は、多くの人にとって他人事
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ひとごと
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ではないはずだ。 現代に生きる私たちは、つながりながら孤独、あるいは孤独なつながりといえるような状況にある。ICTによって盛んに他者と交流し、多くの情報を交換しながらも、個人と個人は心理的に分断されている。ネットでつながりながらも、心は互いに分断され孤独である。そして、個人相互の分断に応じてこの世界もまた分断されている。