「薄命な美女」でも「悪女」でもない……大正モダンガールたちの恋愛は、何が革新的だったのか?
『或る女』『真珠夫人』は、日本文学に新たな女性像を打ち立てた作品ではあった。自分の意思をもって行動する主人公は魅力的で、読者の目を見開かせるような展開もあった。
しかしそれでも、ヒロインは死ぬのである。
『或る女』の葉子の死は子宮の病気によるもので、本人のせいでないものの、『真珠夫人』瑠璃子の死は、自分が弄んだ相手に殺害されたのであるから、事件報道でいうところの痴情のもつれ、文字通りの「因果応報」「自業自得」である。
美貌に恵まれた女性が容姿を武器に男性社会をわたっていく物語は、胸のすくような展開で読者の心をつかむ半面、二つの疑問を浮上させる。
なぜ死ぬのは決まって女性なのか。
そしてもうひとつ、女性には容色以外の武器がないのか。
男を惑わす悪女はしばしば「ファム・ファタル(宿命の女)」と呼ばれる。悪女文学の本場はフランスだ。鹿島茂『悪女入門――ファム・ファタル恋愛論』は、この種の文学の嚆矢(こうし)はアベ・プレヴォー『マノン・レスコー』(1731年)だったとし、『椿姫』『カルメン』などを論じつつ、男を破滅させるのがファム・ファタルの真骨頂だと述べている。
その伝でいけば、『或る女』も『真珠夫人』も悪女文学の極東版であろう。悪女は男性読者のファンタジーを、どうやらかきたてるのだ。ああ、僕も翻弄されてみたい……。
だが、ここは現実に戻っていただこう。恋愛は本来、復讐の道具じゃないのである。