夢/記憶のもとへ駆け寄って。生命のまたたきをことほぐ、青葉市子の新連載
「群像」2023年5月号よりスタートした青葉市子さんによる連載「星沙たち、」。時空を超えたあらゆる瞬間の情景のかさなり、メモワールをたどって。「星沙たち、」第1回(「群像」2023年5月号掲載)を再編集してお届けします。
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かつて、それぞれに蠢いていた小さな生命が、永遠に似た時を過ごしながら砂となり、浜となり、今は静かに、星の呼吸に耳を澄ませている。
私は現在、人の姿を保ちながら、眠ったり起きたりを繰り返して生きている。眠っているというのは、あくまで、起きている側から見た仮の状態を言い、実際は、日々異なる世界へワープして体験を汲み取り、特殊な記憶装置を通して、起きている側へと届けるような作業を行っている。
夢、と名前のついたその作業は、時には命懸けで身を削るほど過酷だったり、かと思えば、起きている時には味わうことのできない、楽園のような場所へと飛ばされたりする。起きている側が青葉市子をやってくれている間、私は忙しなく彼女へエネルギーを供給する。日々のワープ先へは、ランダムに運ばれるようになっている。
2023年、夢。
薄暗い、丑三つ時独特の重みを持った時間が、ゆっくりと夜を呑んでいる。昭和の時代に建てられたであろう、横開きの玄関には蛍光灯が点る、食堂跡地のような建物の2階から窓の外を眺めていた。
小径を挟んだ向かいは商店だろうか、シャッターは閉まっているが、建物の中から漁火のような煌々とした橙の光が漏れ出ている。連なる商店の隙間に、ぽっかりと闇に落ちた1軒分の空白があり、そこへ度々細く白波が打ち寄せているのが見えた。何度目を擦って確認してみても、そこだけが波打ち際になっている。砂浜は無く、粗いコンクリートで造られた階段が海に向かって伸びている。錆びた鉄筋の所々飛び出る階段に静かな波が当たり、ちゃぱ、と分断された水の音がやけに耳に近くこだましていた。
少し見に行ってもいいかな、と思い立ち、窓から顔を引っ込め、玄関へと続く階段を急ぎ足で駆け降りる。みんなが寝ているので音を立てぬよう、素早く、毛羽立ちが無くなってのっぺりした灰色のカーペットに裸足を沿わせ、玄関に降りて引き戸を開けた時、汽笛が鳴った。錨を揚げる音が背後から聞こえている。建物がぐわんと揺れるのがわかった。汽笛に驚いて足が止まり、引き戸に手を掛けたまま、妙に明るく静まり返った夜の小径を見つめていた。数メートル先のコンクリートの階段には、先ほどと同じリズムで波が打ち寄せ続けている。
ふと竦んだような気がして足元を覗くと、道と建物の間には深い溝が生まれ、真っ黒い海水が流れ込んで来ていた。みるみるうちに道が遠退いて行く。いえ、道が離れているのではなく、建物が離れて行っているようだった。諦めて身を室内へ戻し、ぱしゃんと引き戸を閉めた。
もと来た階段を上って行くと、眠っていた人々が起き出していた。頭の上の方から「起きたの」と声をかけられる。私はみんなより先に眠ってしまっていたらしい。確かに、ずっと程よい眠気と身体の重みを感じていた。
しかし、いつからだろうか。眠ったり起きたりを何度も繰り返した後のような、輪郭がまだはっきりしない、長い眠りからようやく目が覚めて、久しぶりに立っている感覚があった。身体の使い方を思い出すように、先端に意識を巡らせ指を動かしてみる。頭の中には、鈍くぼやけた、記憶とも呼べない残り香があるだけで、正体は摑めない。
2階には小さな部屋が3室ほど並んでおり、各部屋に3~4人が雑魚寝している。戸が無く、壁は薄い板が打ちつけてあるだけの、ただの箱のような部屋だった。床には他のフロアと同じく地続きのカーペットがのっぺりと張り付き、長く踏み潰されて元の色がわからなくなっている。部屋の隅の方に目をやると、背中を向けてまだ眠っている人がいた。
出航しようとする建物に制服姿の配達員が駆け寄って来た。配達員は革製の大きな斜めがけの鞄をおさえながら、小径から建物へ軽々と飛び移り、2階まで息を切らして駆け上がって来た。最後の一段を上り切るのと同時に、「集荷の方居ましたよね!?」と、小声のつもりでも大きくなってしまった声を響かせながら、きょろきょろ辺りを見渡している。
部屋の隅で胎児のように背中を向けて眠っている彼女がそうらしかった。先に目覚めていた同じルームメイトの高野さんが、「ああ彼女の荷物はあれ、ワインだよね」と、梱包されている段ボールを指さした。殴り書きの字で送り状が貼ってある。
「助かります!」と言って、配達員は段ボールを抱えて階段を駆け降り、玄関で一時停止した後、相当開いてしまった陸との間を助走をつけて飛び越えて行った。着地した時少しよろけていたから、そこそこ危ない距離だったのだろう。
(急に思い出した高野さんの名が頭にこびりつく。高野さんは誰なのだろう。)
建物は、まだ到底朝の気配など見えない、漆黒の海へと出航した。
遠ざかる商店街はぼわりとした光に包まれ闇に浮き、大きな母船にも見える。よく見ると商店がひとつひとつ孤立して揺れていた。そこで気がついた。あの小径は汽船たちが集まったことによって作られた一時的な陸地だったのだ。幾つもの商店の形をした汽船が各々繫がり合い、軒先に広げた鉄製の板を合わせ小径を作っていた。
では、あの海へ伸びていたコンクリートの階段は。あの場所から全ての商店が退いた後は、コンクリートの階段だけが残っているのだろうか。なぜなら、コンクリートの階段だけが、まるで海底から隆起して突き出たように硬く、そこにありつづけ、微動だにしていなかったからだ。