徳川家康の女性観 : 後家好みだったのか? 賢女好みだったのか?
正室・継室(後妻)、さらに側室まで含め、生涯で21人(人数は諸説あり)の妻を持ったという徳川家康。当然、子だくさんだった。一説には、懐妊する可能性の高い出産経験のある女性を側室に抜擢したといわれるが、果たして家康はどんな女性観を持っていたのだろうか。
権力者は、自分が持つ権勢や財力を子どもに受け継がせたいと願う。
かつて生まれた子の生存率は低かった。一例だが江戸時代中期~後期、1歳未満乳幼児の死亡率は10%台後半だった(『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫)。この数字は濃尾地方(愛知・岐阜・三重県にまたがる平野部)におけるものだが、他地域もほぼ同じだったろう。
医療・治安・食料事情が劣悪だった戦国期は、さらに死亡率が高かったはずだ。たとえ成長しても、戦で討ち死にすることもある。そこで、権力者は多く子を持とうとした。たくさん子どもがいれば、生き残る者もそれだけ多い。
天下を統一し、江戸幕府を開いた徳川家康もまた、後継ぎ候補を確保する重要性をよく知っていた人物である。系図や史料で確認できる子どもの数は16人に上る。正室の築山殿が産んだのは1男1女。継室の朝日姫(豊臣秀吉妹)との間に子はなし。残る14人(男児10人、女児4人)は、19人いた側室のうちの10人が産んだ(側室と子どもの数は諸説あり)。このうち何人かは夭折し、正室の築山殿とその子・信康は、家康自らが粛清してしまった。妻子を見捨てた背景には、長年敵対していた武田氏との関係を巡って、あくまで武田と戦う意向の家康派と、対武田を見直そうとする信康・築山殿派の路線対立があったという。
このため、側室との間に生まれた子たちが、徳川の次代を担うことになる。後の2代将軍・秀忠をはじめ、福井(福井県)・尾張(愛知県)・紀伊(和歌山)・水戸(茨城)の各藩の藩祖を産んだのは、側室である。娘たちも有力大名家に嫁いだ。
徳川の繁栄に、側室たちが果たした役割は大きかった。