栗野宏文の「ファッションの今とこれから」プラダ財団美術館の展示を通じて考えるファッションとイメージ
ファッションとアート。この2項が並列に語られ、話題となることも近年多い。ブランドがアーティストとコラボレーションしたアイテム云々という具合に。
ひとが生きるにあたって食べ物や住居と同じくらいに着るものは重要であり、また芸術に触れることは人生において不可欠な要素である、と僕も信じて生きてきた。
だが、いわゆる西欧型先進諸国における“ファッション消費”を考えるとき、それは過剰なレヴェルにまで達し、本来の“ひとが幸福を感じることのできるエレメント”としての存在から脱輪してしまった様に感じる。“いつか手に入れたい憧れの対象”であったファッションは、“手に入れる行為”或いは“手に入れた自分のソーシャルメディア露出”が主題となってしまったかの様に思えるのは僕だけではないだろう。
今やファッションは、生産における過剰のみならず、イメージ消費の過剰、そこに起因する賞味期限の短命化も含め、現代社会が解決すべき課題の一つとなった。一方では成功したブランドの証としての私設美術館開設を各社が競っている様にも見える。
2015年、夏。プラダ財団美術館のオープニングに招待された際にはプラダも同類か…的な感触は免れなかった。だが広大な敷地を専有したプラダ財団美術館は、その外観だけでも予想を上回るものだった。旧工場跡を再利用し、レム・コールハースがデザインした建築群は旧建築を活かしたもの、全く新しいもの、キッチュな黄金に輝く棟まで多岐にわたり、プラダ財団としてのアイデンティティーを明確に持つ施設として具現化されていた。そして、何よりも展示が衝撃的だった。
「シリアル・クラシック」――。このテーマは、“継続する古典”と訳せば良いのだろうか。古代ギリシャやヘレニズムの中で生まれた歴史的な彫刻群は、その後の時代でも同一テーマやポーズを再現され、復刻され、コピーされた。モチーフは繰り返されたのだ。では再現やコピーはオリジナルより劣るのか? 単に考古学的な基準で判断すれば、そう言えるかも知れないが、むしろ“繰り返される“対象であることにおいて、より意味やテーマが純化され、繰り返される価値を持ったものとして存在を強める。本来は信仰や権力、あるいは哲学を可視化したものであった彫刻群は、時代やマテリアルを変えて尚、崇拝の対象や心の支えとなり得た。
「ルネッサンスとはまさに『古典再生』という意味であった」と、キュレーターのサルヴァトーレ・セッティスは(2015年の財団フィルムにおいて)宣言した。
「シリアル・クラシック」がプラダ財団施設のお披露目というタイミング下、自社のテリトリーで開催された展示であることは前述のキュレーションとダブルミーニングになっている。少なくとも僕はそう感じた。ブランド品とはコピーされるものである。しかしコピー品であってもそれを持つ人にとって、時には“ブランド品”同等の価値や満足を与えてくれるものーー。それは現代におけるブランドとイメージとプロダクツの関係性では無いか?
ファッションに関わるものにとって‟オリジナルとコピー“とは最重要のテーマかも知れない。それを、頻繁にコピーされる側のプラダ自らが言語化した、と僕は思った。
【写真】(左)Drawing after the Farnese Cup c.1400–1450, Iran, probably Herat
carbon ink on paper inscription ascribed to Muhammad Khayyam
Diez A fol. 72, p. 3, no. 2
Berlin, Staatsbibliothek zu Berlin, Preußischer Kulturbesitz, Orientabteilung
© Staatsbibliothek zu Berlin – PK, Orientabteilung, Diez
(右)Farnese Cup 2nd–1st century BCE
sardonyx agate cameo
Naples, Museo Archeologico Nazionale di Napoli, inv. 27611
Courtesy of Ministero della Cultura – Museo Archeologico Nazionale di Napoli