見返したい、その一心で9浪で早稲田大 濱井正吾さん
9年間の浪人生活を重ねて、第1志望だった早稲田大に入学しました。苦労しました、9浪だけに。
周囲に大卒者はおらず、「大学なんて行く意味なし」という考えの人ばかりの環境で育ちました。10歳のとき、父が脳出血で働けなくなり低所得世帯になったこともあり、私自身大学に進学する気はなく、卒業後にすぐ働きに出るつもりで進学校ではなく、産業高校へ進みました。
大学受験を考えた大きなきっかけは、高校で入った野球部で部員からひどいいじめを受けたこと。見返すため勉強で今の環境から抜け出すしかないと思ったのです。
しかし、その頃の学力はといえば英語のbe動詞も忘れていて、現職の総理大臣の名前も言えないレベル。推薦で入学した最初の大学は偏差値はそれほど高くなく、高校とさほど環境が変わらず、絶望しました。
他大学と交流するサークル活動で、京都大や同志社大などの学生と出会ったのですが、思慮深く言葉遣いが丁寧で育ちの良さがうかがえ、「彼らのようになりたい」と浪人を決意。世間から評価される指標でもある学歴を得て、学歴以上に自分に自信が持てるようになるには受験しかないと思ったのです。
大学に通いながら受験勉強する仮面浪人として1浪目に志望校を決めるとき、誰もが知っていてすごいと思える一流大でなければいじめた人たちを完全には見返せないと考え、東京大、京都大、早稲田大のいずれかに絶対に行くと決めました。
ただ、親に学費を出してもらい、予備校まで行かせてくれとは頼めない。勉強の仕方が分からないまま独学で学力が伸びなかったので就職して金をため、夜に勉強をして大学進学を目指すことに。卒業時に30歳なら就職先が見つかる可能性があると逆算し、8浪まで粘って大学に入れる力をつけようと考えました。
仕事を始めてからの5浪目から7浪目秋までの2年半は特につらかった。親に「予備校通いなんていつ辞めるのか」と白い目で見られ、仕事でくたくたで勉強時間は十分に捻出できない。受験費用の300万円がたまると仕事を辞め、勉強1本に集中できたが、家の空気は一気に悪くなり、どこにも居場所がないこともつらかったです。
勝負の年だった8浪目は6大学11学部を受験し、11戦全敗。今までやってきたことは何だったのかと生気が抜けたようで、帰りの夜行バスで涙が止まりませんでした。
得意の英語も大学入試センター試験(当時)の得点は8割で伸び悩み、低迷の原因が分からない。このまま終われないと京都市内の予備校へと環境を移し、9浪目は科目を絞り目標を早稲田1本に。伸び悩んだ英語の原因が精読力のなさにあることもそこで初めて分かりました。必死に勉強し、平成30年に早稲田大学教育学部に合格。憧れ、思い描いた学生生活が送れて幸せでした。
大学入学がゴールではない、とよく言われますが、私はゴールだと人に伝えています。全力を出し尽くすほど頑張れば、その後の人生でそれよりハードルが高いことはそうないし、そうつらいことはないと思うからです。
あれほど見返したかったはずのいじめた人たちとは会っていません。彼らは結婚して子供もいて、いじめたことなど忘れているかもしれない。気にならなくなったのは努力の総量で彼らに完全に勝てたから。勉強できる環境は誰もが持ち得るものではありません。私は自分が置かれた場所で最大限の努力ができた自負があるから、人生に一切の悔いもないです。(聞き手 木ノ下めぐみ)
◇はまい・しょうご 1990年11月生まれ、兵庫県出身。最初に入学した大学1年生在学時から仮面浪人となり、社会に出てからも勉強を続け9浪目にして早稲田大学に合格。現在は教育系ライターとして自身の経験を発信している。近著に「浪人回避大全 『志望校に落ちない受験生』になるためにやってはいけないこと」