巨人という存在
高校生の時は太宰治と芥川龍之介を読み漁っていたのだが、大学に入ってから、ドストエフスキー、カミュ、カフカ、サルトル、ジッドといった世界文学に出会った。そこから三島由紀夫、安部公房、と進む中で手に取ったのが大江健三郎さんで、つまり大江さんは、世界文学としての日本文学、という認識で興味を持ったのだった。
初めに読んだのは『個人的な体験』。タイトルから、著者の個人的な体験を私小説風に書いているのかな、と思ったが全く違った。個人的な体験をただ書いているのではなく、個人的な体験から得たことを書きつつ、そもそも「個人的な体験とは何か」を書いていた。
アフリカ行きを願望する主人公の鬱々とした日常を、アフリカ的比喩を使って構築した見事過ぎる文学的手法に気づいたのは後からで、ただもう、あの頃は夢中で読んだ。大学一年の僕と主人公は環境も年齢も違ったが、「この小説は僕達に向けて書かれている」と感じた。自分の暗部と共振しながら、さらに深部へ連れていかれる感覚。小説を読み衝撃を受けると、その作家の他の小説を続けて読み漁る傾向が僕にはあるのだが、それから大江さんの小説を、連続して幾つも幾つも読むことになった。書かれている救いには、今後の自分にとって決定的に重要なものが含まれていると感じた。
ドストエフスキーや安部公房などはもうこの世にいないが、この作家が自分と同じようにこの時代に存在していることが不思議だった。何というか、大学一年の頃の僕の読書傾向は偏っていて「凄い作家はみんなもう死んでいる」と勝手に思っていた(その後に様々な作家を読み、当然そうじゃないとわかった)。つまり僕にとって大江さんは、同時代に存在する作家の中で、初めて夢中になって作品を読み続けた作家ということになる。
自分が作家になってからは、憧れを通り越し神格化していた。だから大江賞を頂くことになった時は現実感がなかった。大江賞を頂くと、大江さんと対談することになっている。遥かなる憧れは、その性質上、対象を自分から遠くに置き、仰ぎ見るようになるのかもしれない。自分とは全く別世界に存在している人に会う。現実と思えなかった。
対談の前に編集者から、大江さんに何か質問があれば前もってお伝えします、と言われていた。様々な、膨大な質問が一気に湧いたが、立ち止って考えてみると、どの質問にも大江さんが既に小説やエッセイで答えていることに気づいた。この質問の答えはあの小説に、あの質問はあのエッセイにという風に。本の人。あの時、改めてそう思った。作家だから存在そのものがある程度は本と化しているのは当然だけれど、大江さんはまるで、本そのものであるように思った。僕が思いつく程度の質問の答えは、既にもう全て、本となって存在している。
だから僕の質問は「今の僕に必要な、今の僕が読まなければならない本があるとしたら何でしょうか」というパーソナルなものになった。その時に頂いた本は内緒だが、今でも僕のバイブルとなっている(……ちなみに、初めてお会いした大江賞対談の前の控室で、僕は生涯にないほど緊張した。大江さんが僕に話しかけながら、控室にあったお菓子の“ハッピーターン”を何気なく持っているのを見て、「あの“大江健三郎”が目の前にいて、ハッピーターンを持っている。“大江健三郎”とハッピーターン? 何という取り合わせだろう? 夢に違いない。大江賞も全部夢だ。しかしながら、これは何か文学的なメッセージか? ハッピーがターンする? 幸福が回転?」とか本当に思っていたほど重症だった)。