なぜ神社の「整理整頓」に反対したのか…日本初の「環境保護活動家」南方熊楠が守りたかったものとは
それでは、いったいなぜ熊楠は神社合祀に反対したのか。熊楠が反対運動をスタートさせたのは、植物採集でこもった那智から離れ、田辺に移ったのちの1909年9月のことであった。
神社が合祀されるということは、神さまが引っ越したのと同じで、それまでの境内が空っぽになる。空っぽになったところは、そのまま残しておくことなどせず、転用される。田畑にされるなり、建物が建つなり、公園ができるなりして、従来の環境が潰されてしまう。熊楠にとってそれはみずからの研究フィールドが破壊されることを意味した。そのため、危機感を覚えて反対運動に立ち上がったのである。
熊楠が反対運動を始めた直接のきっかけは、近所の稲成村の糸田神社(日吉神社、猿神社とも呼ばれた)が合祀されたことであった。
南方家から歩いていけ、鬱蒼とした神社林があり、お気に入りのフィールドのひとつとなっていた。ここで熊楠はアオウツボホコリという変形菌(図5-1)を採取している。
灰青色のきれいな姿をしており、それまで見たことのない種類であった。1906年12月23日にイギリスの変形菌研究者であるアーサー・リスターに送ったところ、1907年3月19日付の書簡で新種だと伝えられ、熊楠はたいそう喜んだ。熊楠が発見した変形菌の新種の第一号となったのである。
ところが、この書簡が日本の熊楠のもとに届いたのは4月5日。その直前の4月1日に糸田神社の合祀が決定し、同村内の稲荷神社に移されてしまったのである。翌年には境内も整理され、アオウツボホコリが発生していたタブノキの倒木も処分された(図5-2)。これが熊楠を怒らせたのであった。
やはり変形菌研究者だった、アーサーの娘のグリエルマ・リスターに宛てた1909年2月19日付の書簡では、「わたしたちに多数の変形菌の標本をもたらしてくれた猿の神さまは、狐の神さまのところへ移されてしまいました。ここの景色はやがて破壊されてしまうでしょう。二度とアオウツボホコリを採取する見込みはありません」と書かれている。糸田神社は猿を神のお使いとする。それが稲荷神社、すなわち狐のところに移されてしまったというのである。
これによって神社合祀のもたらす危険に気づいた熊楠は、和歌山各地で進む合祀に対して、果敢に反対運動を繰り広げていくことになる。