僕が「行動する作家」開高健の味覚の描写から学んだこと
現在は開高健記念館となっている旧開高健邸は、サザンオールスターズの歌でも有名な、ラチエン通りに面していて、そこからすこし奥まった緩斜面に南に向いて立っている。とても居心地のよさそうな邸宅で、こんなところに書斎を構えたら、かえって執筆に差し支えるのではないかと余計なことを考えたくらいだ。
というのは、「行動する作家」というニックネームが示す通り、開高健は、書斎を飛び出し、現地に行って、見て、味わい、考えて、書くというスタイルが際立った作家だったからだ。同時代の作家としては大江健三郎が有名だが、大江のエッセイを読んでいると、僕は書斎タイプの作家であると告白するようなフレーズに時折出合ったが、いま振り返るとあれは開高健を意識して書いていたのだなと思ったりもする。
開高の果敢に現地に赴くスタイルが誕生したのは、純文学で華々しくデビューし、芥川賞を受賞したのちに長期のスランプに陥り、先輩作家に相談したところ、ノンフィクションに挑戦してみたらどうかというアドバイスをもらったことがきっかけで、やがてヴェトナムの戦地にまで赴き、傑作「輝ける闇」を書くに至ったことも、このシンポジウムで知った。
■ハードルが高い味覚の描写
さて、突然話は変わるが、僕は小説家だが、長い間映画業界で禄を食んでいた。一応小説家としてやっていけているのは、映画からストーリーの力学みたいなものを吸収していたからではないかと思う。小説も物語を語るという点においては同一である。
しかし、時間経過や場面転換、そして回想などを、映画と小説はちがう手法で表現する。そして、小説だけに重く課せられているのが言葉のみによる描写だ。映画やテレビなどのシナリオライターが小説を書きはじめる場合、情景描写という壁に突き当たるようである。シナリオのト書きに比べると小説の情景描写は非常に重要だからだ。
実は僕は、母方の親族一同で写生俳句をたしなむという変な家系で育った。そして僕も駄句を叔母が主宰する俳句雑誌に毎月投句させられている。ヘタクソなので嫌で嫌でしかたがないが、小説の読者から「情景がありありと目に浮かぶようだ」と褒められると、作句はトレーニングとして多少は役に立っているのかもしれないとも思う。
情景描写に加えて、言葉による容貌の描写、服装の描写もなかなか難しい。登場人物(大抵主人公)が相手の服装を見て強く意識した場合、それを描写するべきなのは当然だ。しかし、実を言うと僕は、ここいらへんはかなり省略して進めるようにしている。
苦手だからだということもあるが、これを熱心にやることの弊害を鑑みてのことでもある。見るというのは一瞬だけれど、見たものを語るのは時間がかかる。これをいちいちやっていると、物語のスピードはぐんと落ちる。小説の語りは、加速と減速を交えながら進むものではあるが、基本的には加速を信条とするのだ。
そしてもうひとつ、描写としてきわめてハードルが高いのは味覚の描写である。これもまた縷々語っていくと作品のテンポが冗長になるが、上手く表現できると作品にそれこそまた別の味わいを加えることができる。
僕の小説は、よくものを食べるシーンが出てくる。このときに、登場人物が食べているものの味と、主人公が考えていることをブレンドして言葉として表現したいという欲求に駆られるが、これがなかなか至難の技だ。