村上春樹さん単独インタビュー(前編)「希求する心」掘り起こしたい
◇フィッツジェラルドの未完小説を翻訳
――村上さんは4月上旬、フィッツジェラルドの長編小説「最後の大君」(中央公論新社、別稿参照)を翻訳・出版しました。フィッツジェラルド作品の翻訳は、デビュー直後の1981年に出した短編作品集「マイ・ロスト・シティー」以来、代表作「グレート・ギャツビー」を含め、熱心に続けてきました。読者は、村上文学の中の一つの系列みたいに村上訳のフィッツジェラルド作品を読んできたようなところがあります。
けっこう多くの作品を訳して出しているんですよね。
――未完の遺作である「最後の大君」の翻訳は前々から計画していたのでしょうか。
いや、「グレート・ギャツビー」とかは自分がやらなければというのがあったけど、「ラスト・タイクーン」(原題)はどうしようかなと迷っていたんです。「夜はやさし」(フィッツジェラルドの完結した最後の長編)はかなり長くて、全部訳すとなると多くの時間を取られますし、他の人のきちんとした訳も出ているので。でも「ラスト・タイクーン」は、他の人の訳も出ているんですけど、だんだん自分でやりたくなってきて。未完の小説を訳すのもなあ、という気持ちもあったんだけど、読み直してみると、未完でもやっぱりすごく内容はいいなあと改めて再評価して、訳し始めたんです。あとは柴田元幸さん(米文学者)に「村上さん、いつか『ラスト・タイクーン』を訳してくれませんか」と言われて、それが頭に残っていた。それとネットフリックスで「ラスト・タイクーン」のドラマをミニシリーズでやっていたのを見ました。かなり変えてあるけど、なかなか面白かったですよ。それを見て読み直したんだったかな。
――「ラスト・タイクーン」はケンブリッジ大学出版版(草稿をもとに研究者が新たに編集したもの)を底本にした新訳も2020年に出ていますが、やはりウィルソン版で訳したいと。
そう、エドマンド・ウィルソン版でね、やっぱり訳したかった。僕が最初に読んだのがウィルソン版だったし、ブルッコリ版(ケンブリッジ大学出版版のこと。ブルッコリ氏は米国のフィッツジェラルド研究者)を読むと、なんか違うなという気が強くしたんですよね。どっちがいい悪いとはいえないけど、個人的にはウィルソン版のほうがずっと好みですね。
◇「長編を書いてる途中で死ぬのは嫌だな」
――ウィルソンの手がいろいろ入っているとしても、こちらのほうが物語として読めるということですか。
そうですね。もし僕が小説を書きかけで死んじゃったとしたら、誰か腕の良い人に手は入れてほしいと思うでしょう。中途半端で残したまま(草稿を)出されるよりは補修工事をして出してもらったほうがありがたいだろうなと。
――村上さんはかつて、フィッツジェラルドが死んだ年齢である44歳になった時に長編「ねじまき鳥クロニクル」を書いていて、これが途中で完成できなかったらとても残念だろうなと思った、と書いていました。
長編小説を書いている途中で死んじゃったら嫌だなと、いつも思いますね。僕は何度も何度も書き直すタイプなので、書き直す機会を与えられないのはすごくつらい。だから、締め切りは一切作らない。というのは、締め切りを作っちゃうと書き直す時間も限られてしまうので。締め切りは設けない、という仕事(の仕方)をしています。
――自分で、これは一つの作品として完成したといえる状態に至るまでは……。
書き直して、しばらく時間を置いて、また読み直して書き直して、またしばらく……その時間を置くというのが大事です。時間を置く余裕がないと困る。だから、きちんと完成して、はい、と(最終稿を)編集者に渡すまでは生きていたいなと、いつも思います。
「ラスト・タイクーン」を読むとね、フィッツジェラルドは書く過程で補修しながら進めていたんだなと分かる。残された文章は完成度がかなり高いから、ちょっと書いてはそれをきちんと直して次へ進んで、また書いたのを直して先へ進んで、というふうにやっていたんでしょうね。僕はそうじゃなくて、どんどん書いていって最後まで行ってから最初に戻って書き直すタイプなので。
――確かに、未完といっても細部において「最後の大君」は非常に完成されています。
そうなんです。だから、よほど丁寧に書き直しながら進み、書き直しながら進み、というのをやっていたんだろうなと思います。もう一つ、訳していて思ったのは、文章がうまくなっているんです。この人、亡くなったのは44歳だけど、前よりも文章技術が確実に高くなっています。だから、これを最後まで完成させてあげられなかったのは残念だなとすごく思う。訳していて、文章のうまさをひしひしと感じます。
――読者も、作者の早すぎる死で完成しなかったことが惜しまれる気持ちになります。もし完成されていれば間違いなく名作に……。
アメリカ文学史に残る大作になったと思います。
――作者の構想では「主人公の早すぎる悲劇的な死」が書かれるはずでした。
そうですね。ギャツビー(「グレート・ギャツビー」の主人公)みたいに裏切られて失意のうちに死を迎える物語になっていたはずです。それが暗示されるだけで終わっているんだけど。
◇ハリウッドの伝説的プロデューサーがモデル
――主人公のモンロー・スターには、ハリウッドの伝説的なプロデューサーだったアーヴィング・サルバーグというモデルがいました。ギャツビーに比すべき存在感ある人物を描いたことが、この作品の重要なところでしょうか。
フィッツジェラルド作品の場合は、だいたいどれも語り手がいて、その語り手が傑出した人物について語るという形式を取っています。そういう意味では、「最後の大君」の書き方にはかなり無理がある。女性が語り手なのに、彼女が見ていないことまで語らざるを得ないという構造上の欠陥はありますけど、誰かに語らせないとモンロー・スターの人間像はなかなか浮かび上がってこない。一人称ではとても語れないし。作者の没後に編集者が誰かを雇って(未完の)後半を書かせようとしたというけど、そんなのできっこない。だから、技法的にはけっこう無理な手を使っているんだけど、それでも読ませる。一種のアメリカの英雄伝、ロマンスです。そういうものをフィッツジェラルドは追求して書こうと思っていた。
――主人公はアメリカンドリームの体現者のようです。
トップに祭り上げられるんだけど、最後にははしごを外されるみたいな感じで悲劇的な結末を迎えるという構想になっています。
――ハリウッドの映画産業における、ある時代の終わりを象徴する人物として描こうとしたのでしょうか。
1930年代以前のアメリカの映画界は山師の活躍するところだったみたいで、当たるか当たらないか、一か八かみたいな商売でやっていた。だから、ぐんぐん伸びていく人もいるし、潰れてしまうのもいるし。それが次第に統合されてビッグビジネスになっていく。すると、モンロー・スターみたいに手作りで、映画製作の全部を自分が手がけて作っていくシステムは時代遅れになってしまう。また、29年の世界恐慌の後ですから、コミュニスト(共産主義者)が出てきて、労働組合運動も彼の映画作りに対抗してくる。だから、ビッグビジネスと労働運動によって挟み撃ちに遭う。そういう背景はあります。30年代の不況時代が終わりかけた頃の話です。
不況時代のアメリカで流行したものは三つあって、(作家の)アーネスト・ヘミングウェーと(ダンサー・歌手の)フレッド・アステアとコミュニズムです。フレッド・アステアの場合、人々が彼の踊りを見ている間は生活の惨めさを忘れていられた。アーネスト・ヘミングウェーは、好景気だった20年代の華やかなものを取り払って、短い簡潔な文章で物語を作っていく力強さで文学をリードしていった。そしてコミュニズムが力を持っていきます。その30年代はフィッツジェラルドにとっては不遇な時代だった。書くものはあまり評価されなくなるし、経済的にも行き詰まっていくし。でも、「最後の大君」を書き上げることによって、もし元気であれば彼はまた復活できたと思うんですよ。
――40年代になれば、ですね。
そういうフィッツジェラルドの軌跡と、モンロー・スターが30年代の終わりごろから40年代に入って落ちぶれていくというのは対比としては面白い。
――モンロー・スターには、フィッツジェラルドが自分を重ねている面がありますか。
ある程度は重ねていると思うんですよね。彼も無名の貧乏な青年から人気作家にのし上がっていったので。
――そこにさらに時代の変化まで……。
時代の変化みたいなものを、彼は的確に捉えていると思う。映画界がどんな状況に追い込まれていったかという経緯が実にリアルに描かれているし。僕がこの作品を訳そうと思ったのは、ハリウッドという新天地で新しい物語を書こうというフィッツジェラルドの志に魅力を感じたからです。彼はそれまでヨーロッパとか社交界とか、彼にとってのアメリカ東海岸の世界や妻のゼルダに関連した南部ものを書いていましたが、ハリウッドに来て久しぶりに作家としての意欲が燃えてきたんでしょうね。当時、フィッツジェラルドが映画の脚本書きの仕事でハリウッドに行ったのは金のためで、才能を切り売りして、もうあいつはおしまいだとみんなに思われていたけど、彼自身はそこにむしろ新しい可能性を見いだしていた。
フィッツジェラルドは自分の体験からしか書けない人なんです、良くも悪くも。自分の体験しなかったことは書けないし、書いても下手です。生のマテリアル(素材)を集めて物語に作り替えていくという作業をする人だったので、どうしても題材が限られてきて、同じところにいると話が煮詰まってしまう。それがさっと開けて、新しいロマンスが彼の中に芽生えたわけです。また、30年代の作家はだいたいみんなコミュニズムにひかれる。フィッツジェラルドも、この作品にあるように関心はひかれている。それがある程度、社会的な公正さを目指した運動だということも分かってはいるんだけど、彼自身はそういう具体的活動には付いていけない。性格的にあまり向かないんですよね。
――コミュニストの運動家も出てきますが、悪くは書いていません。
悪くは書いていないし、資本家のある種の悪の要素もきちんと描いている。でも彼自身はその真ん中でどちらにも行けない。そういう自分の位置の置き方もこの時代ならではのものですね。だから、モンロー・スターが資本家側にも行けず、組合側にも行けなくて、その結果没落していくというのは、フィッツジェラルド自身の抱いた感触でしょうね。
――一方、ユダヤ人差別も背景にありますか。
ありますね。この時代のユダヤ人に対する描写はだいたいみんなステレオタイプで、金に汚くて、というような描き方が多い。ただ、フィッツジェラルドはアイルランド(カトリック)系だけど、そういうステレオタイプな描写はあまりしていない。そういう面ではどちらかといえば興味を持って、ある意味では共感を持って見ているところがある。それは人種とか宗教性よりは、それが誰であれ社会の下層から上り詰めてくる個人の生命力みたいなものに彼がひかれるからではないかと思う。ユダヤ系の人たちはもともと東海岸で映画を作っていたのが、東海岸は差別が激しいので、全く何もないロサンゼルス郊外のハリウッドに移ってきて自分たちの土地を作ってしまうわけです。そうすれば偏見とか差別がないから。
――ユダヤ人たちが映画界の中心になる理由があったわけですね。
フィッツジェラルド自身はハリウッドについて何か書いてやろうという気持ちがあったから、仕事として与えられた脚本書きには本腰が入らなかった。脚本の執筆に向いてないんですよね。彼が一人できちんと書いた脚本は残ってないですね。
――今後、フィッツジェラルドの他の長編を訳す考えはありますか。
今のところないですね。フィッツジェラルドは好きだけど、短編も長編も全部訳そうとは思わない。かなり出来不出来があるし、今の時点から見て訳す価値がある、ないというのもけっこう差がありますし。それはレイモンド・カーヴァー(米作家、1938~88年)とは違いますね。カーヴァーは全部訳してしまおうと思って、同時代でどんどん訳していったけど、フィッツジェラルドの場合、死んでからずいぶんたっていますからね。あるものは沈むし、あるものは浮かぶしという時の検証を経ている。僕も、僕にとって浮かんでいる面は拾うし、沈んでいるものは沈んだままにしておくし、ということで。
◇訳すのが難しい「塊」を解きほぐす
――村上さんにとってのフィッツジェラルドの特別さについては、いろいろなところで書かれていますが、「最後の大君」を訳して、改めてどう思われますか。
フィッツジェラルドの小説で僕が好きなのは、ロマンスの感覚が強いことです。ロマンスの感覚とは、何かを強く希求する心のことです。それは富であったり、女性であったりするわけですけど、それを主人公が多くの場合、追い求めていって、ある場合には手に入れるのだけれど、手に入れた時にはその輝きが失われているか、あるいは求めることに執着しすぎて破滅していくか、どちらにしても結末はもの悲しい。もの悲しいけど、それを求めたエネルギーというか、生命の躍動みたいなものはしっかりあとに残る。それが僕のいうロマンスだと思うんです。
そういうロマンスを描いた現代小説は他になかなか見当たらない。いわゆる現代文学の象徴性だとか脱構築だとか、そういうギミック(からくりのような特殊語)は抜きで、ごくストレートにロマンスを求める小説作法です。僕もそういう小説を自分でも書きたいと思うんだけど、僕には僕のスタイルがあるので、つい違う方向に(笑い)、違う世界が出てきたりして。でも、自分なりにそういう心の動きを求めたい、ロマンスを求めたいという気持ちは強くあります。
――村上作品にも、女性がいなくなってしまった後といった設定はあるわけですが。
誰にでもそういう求めみたいなものはあると思う。僕は、できれば、そういう「希求する心」を読む人の中から掘り起こしていきたいという気持ちがあります。小説としてうまく書けているとか書けていないとかということ以上に、そういう読者の気持ちの掘り起こしみたいなことが僕は大事だと思うんですよね。
――それがフィッツジェラルドは素晴らしくできている、と。
素晴らしいです。とにかく、この人は文章がうまいんですよね。ロマンスを求める小説って下手な文章で書かれるとね、何も感じない。やっぱり、うまい、匂い立つような文章があればこそ伝わってくる。
――以前、ヘミングウェーはまねができるけど、フィッツジェラルドはまねができないと話していましたね。
できないです。これは翻訳していれば分かるんですけど、フィッツジェラルドの文章は筋が通らないのがけっこうあるんですよ(笑い)。ただ読んでいる分にはすごくきれいだなと思うんだけど、訳そうと思うと、これはどこにつながるんだというようなことがけっこうあってね。難しいです。でも、その薫りを何とか日本語にして伝えるというのは、やっていて面白いというか挑戦的で興味深いです。だから、翻訳していて、難しい「塊」というのがある。ここの「塊」は難しいなというのを何日も何日もかけて解きほぐしていかないといけない。かと思うと、すうっと進んでいくところもあるし。その辺の兼ね合いがフィッツジェラルドは本当にうまいですね。
――すっと流れるところもあれば、「塊」もある、と。
どちらかばかりだと小説はつまらなくなる。ガチガチに固まってほぐれないものがあって、あとはすうっと流れていって、また「塊」があって、というリズムですよね。それは僕も勉強になりました。
――そういうリズムのあり方は、フィッツジェラルドから影響を受けたと。
それは翻訳しながら勉強していったことですね。優れた作家はそういうリズムがいいんですよ。こだわる部分、流す部分というのがね。レイモンド・チャンドラー(米作家、1888~1959年)もそういうのはすごくうまい。トルーマン・カポーティ(米作家、24~84年)もうまいですね。
――「塊」というのは、感覚的には分かるけれど訳そうとすると難しい部分、ということですか。
そういうのも多いですね。単語と単語は分かって、イメージは分かるんだけど、そのつながりが、順番が分からないというか。言いかけていたことが途中で終わって別のことに移ってしまうとか。それはもう「フィッツジェラルド世界」になってしまう。柴田さんに(翻訳を)見てもらうとね、よく言われます。「ここはよくまあ、ちゃんと日本語になりましたね」という感じで。英文学の学術的プロパーの人にはなかなか難しいかもしれない。小説家は割にいいかげんだから、ある程度いいかげんに訳してしまったほうが心持ちは伝わるのかもしれないですね。あまり正確に訳そうと思うと、日本語として意味が通らなくなってしまうことがあります。
◇「最後の大君」(原題:The Last Tycoon)
「ジャズ・エイジ」と呼ばれる米国の1920年代を代表する作家、フランシス・スコット・フィッツジェラルド(1896~1940年)の長編小説。執筆中に作者が心臓発作で死去したため未完の遺作となり、友人で文芸評論家のエドマンド・ウィルソン(1895~1972年)の手で草稿が整理・編集され、41年に刊行された。貧しいユダヤ人家庭の出身ながら優れた才覚で成功を収めたハリウッドの映画プロデューサー、モンロー・スターを主人公に、その栄達から没落への過程を一人の女性との恋愛とともに、文学的香気をたたえる美しい文章で描いた。