「なんとか」の集合を、「なんとか」見ることの尊さ。小金沢智 評「なむはむだはむ展『かいき!はいせつとし』」
3階建の太田市美術館・図書館は各階に展示室があり、入口1階の展示室に入ると、「白石しゅうた くりっらがおれた」と、おそらく子供が書いた文字そのままの文章が紙で掲げられている。だが、「くりっら」がなんなのかわからないので、それが「おれた」と言われても正直困る(平仮名なので、「折れた」であるのかどうかもはっきりしない)。くりっら? その周りには、複数の既製品を組み合わせたり、加工したりしてつくられたらしい作品らしきものがあり、そのかたわらには、「岩井秀人」「森山未來」「前野健太」という「なむはむだはむ」のほか、美術家・彫刻家の「金氏徹平」のキャプションが置かれている。ただそれは、スチレンボードに名前だけが印字されたきわめて簡易なものであり、作品名、制作年、素材、技法、サイズなどは書かれていないし、ましてや解説は見当たらず、さらに不可解なことは、ほかにも、彼らだけではない幾人かの名前のキャプションがあり、作品らしきものがあるということだ。
いかにも不思議な面持ちで展示を見ていると、作品らしきものの近くに、QRコードが掲示されていることに気づく。あまりに会場に情報がないため、スマートフォンを取り出し、カメラ機能を起動させて、QRコードを読み取る。すると、これもまた、おそらく子供が書いたらしい文字そのままの文章を載せたページにつながる。どうやら、これらが作品と関係しているらしい…...ということに、だんだんと気づく。このときにはもう、「なむはむだはむ」の術中にハマっている、と言えるのかもしれない。
「なむはむだはむ」は、作家・演出家・俳優の岩井秀人、俳優・ダンサーの森山未來、シンガーソングライターの前野健太の3名が、2017年、「子供たちのアイディアを大人たちがなんとか作品にする」というコンセプトで始めたプロジェクトである。東京芸術劇場(池袋)での上演「コドモ発射プロジェクト『なむはむだはむ』」(2017年)、NHK
Eテレ『オドモTV』内「オドモのがたり」シリーズ放映(2018~21年)、「なむはむだはむLIVE!」(2021年)と、舞台を出発点としながら、映像作品、音楽ライブと展開を重ね、『かいき!はいせつとし』は、初めての美術館での発表である。展覧会開催にあたっては、金氏徹平が加わり、さらに、平野篤史を代表とするデザインスタジオAFFORDANCEも、本展におけるグラフィックデザインの側面から大きく関わっている。
さて、このプロジェクトにとって重要なことは、メンバーと子どもたちとのワークショップを起点にしていることであり、「なむはむだはむ」という名称自体、「ワークショップ中に子供たちが生み出した、死者を弔うためのことば」であるという(「南無阿弥陀仏」と語感が近いことに、ここで気づかされる)。そう、本展の「作品らしきもの」とは、「子供たちのアイディアを大人たちがなんとか作品」にしたものにほかならない。冒頭の展示室には、紙粘土、絨毯、流木、エフェクター、ギター弦、塗料、ペットボトル、割り箸、カーペット、石、絵具などを素材とする、立体、映像、ドローイング、グラフィックと分類しようとすれば分類できる、いくつもの作品が置かれている。だが、「作品らしきもの」と私が思いがけず書いてしまったように、それらはいわゆる作品然とはしていないものが多い。「子供たちのアイデア」は、一部、映像として壁面に投影されていたり、カッティングシートで貼られていたり、石にシルクスクリーンで貼られたりしているものの、それらは基本的に抜粋であり、その全体はQRコードを読み取らないかぎり鑑賞者に対して明示されない。
ここで、「意味がわからない!」「説明が必要だ!」と声を上げることは簡単である。私も、説明があったら鑑賞がずいぶん楽だったと思うし、「意味」にもっと早くたどり着くことができたかもしれない。美術館のスタッフは、そこまで荒げたものでないにせよ、来場者のそれに近い困惑を日々聞いているかもしれない。ただ、ここで、こうも言える。楽な鑑賞をして、意味に早くたどり着いて、即座に答え合わせができるように作品を見て、鑑賞の体験として何が残るのか?
じつを言えば、この展示室に入る前、壁面に飾られていた神棚らしきものにこう書いてあったのだ。「ぼくのぽいんとはだいじなことをおとさないでやることです/だいじなことをおとさないでやるとへんなおはなしをそうぞうしてもいいおはなしになります」。ここで「だいじなこと」とは何かと問われたら、なむはむだはむのコンセプト「子供たちのアイデアを大人たちがなんとか作品にする」の「なんとか」だろう。人と人とのコミュニケーションは、本来、誰もに共有可能な正解などなく、時間をかけて「なんとか」していくものではなかったか。ここに展示されているのは、なむはむだはむのメンバーをはじめとする「大人たち」が「子供たちのアイデア」を「なんとか」しようとした、その集合である。来場者もまた、「なんとか」それらを見てはどうかと、なむはむだはむと主催者の太田市美術館・図書館は言っているのだと私は思う。すなわち、本展の「わからなさ」は、大人と子供とのあいだにかぎらず、日常的に他者との間に生まれ(続けてい)る「わからなさ」にほかならない。なむはむだはむは、そのことを臆面もなく提示する。
「いろいろのけいけんおしてきたからおわびにたのしいことおいっしょにやりましょう」
展示室のもっとも大きな壁に、そう大きく書いてある。もとの文章を書いた子供は、まだ「を」と「お」の区別が付かない。本展では最終的に、子供たちの何十何百の言葉・物語を見聞きすることになるのだが、ふだん、私たち大人が日常生活で読むような日本語として整った文章は当然のごとくほとんどない。「てにをは」は言うまでもなく、時系列の倒錯、発想の飛躍、文脈の逸脱があり、それらは「大人たち」を困惑させる(少なくとも私は困惑した)。と同時に、それらは思いがけない視点をもたらして、常識を上書きし、世界の見方を押し広げる。
本展では、3つの展示室のほか、施設内各所、外壁をはじめとする屋外にも展示が展開しているのだが、1階から2階のスロープのガラス一面にこうある。
「あるとうめいのうちゅうがありました」
たくさん書かれたうちの一フレーズが抜き出されているのだが、この一文が、夜間ライトアップされたさまを見るとさながら宇宙をゆく宇宙船のような太田市美術館・図書館の姿に重なる。あるいは、太田駅から太田市美術館・図書館へ向かう際正面にあたる壁面には、「ガイコツの体は海に頭は八百屋に。」とあって、この一文は海なし県である群馬県民に海の「遠さ」と八百屋の「近さ」という本来相容れない印象を同時にもたらすかもしれない(群馬県出身の私にはそう思わせたし、同館では2019年と2022年に「Ota
Inland
Beach」という海がない街に「海」を想起させる環境をつくるイベントを行なっている)。さらに屋上に上がると、山を借景として、壁面に「おじいさんは山へヨガに」とある。または「母さんだった」と一言だけあって、何が?と思うのだが、こうした突拍子のない、「大人たち」からすればときに冗談のような子供たちの言葉・物語を、なむはむだはむは丁寧に抜き取り、「なんとか」作品としてつくり上げている(屋外の言葉のセレクトは、前野健太によるものだ)。そう、本展は、鑑賞者が自分以外の他者=世界と出会い直す展覧会である。当人としては「大人たち」に対してそんな気はさらさらないと思われる、多くの「子供たち」の力を借りて。
だから、急いではいけない。本展で、1階の展示室での困惑や驚きは、スロープ、2階の展示室、そして3階の展示室と、途切れなく続く。2階の展示室には、なむはむだはむのメンバーと金氏があれやこれや子供たちの言葉・物語を深読みするセクションがあり、3階の展示室は、空間としては最も小さいものの、本展のモチーフである数々のワークショップでの子供たちの言葉・物語で埋め尽くされている。それらは展覧会の「答え合わせ」として提示されるものではなく、むしろ新しい膨大な謎の始まりである。さらに、展示室を出れば、平野篤史らAFFORDANCEが太田市の子供たちとのワークショップを通してつくった新たなサインが掲げられていたり(もともと平野は、太田市美術館・図書館設立にあたってのサイン計画のアートディレクター/デザイナーである)、館内・館外の思いがけない場所に子供たちの物語が入り込んでいる。
『かいき!はいせつとし』は、最後まで見通しても/読み通しても、「わかる」ことがない。だいたい、タイトル自体が「怪奇」「回帰」「排泄」「排雪」「都市」「と死」など、いくつもの意味が想定される語の集合である。正解はない。「わからない」まま、「わからない」状態を認め、「なんとか」であったとしても、「わからない」ものと向き合う。そのストレートさと懐の深さに、私は途中でひとり、おおいに笑ってしまったのだった。