民衆が担う版画表現のゆくえ。小笠原正・評 「彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動」展
「子供の頃に彫った版画が展覧会になっている」――食い入るように展示作品と資料をのぞき込む多くの大人たち、そして、戦後を生きた小中学生の木版画を見入る現代の子供たち。会場は「私たちの展覧会だ」という静かな熱気を帯びていた。町田市立国際版画美術館で開催された「彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動」の雰囲気である。それは作品群が、見る者に小学校で版画を彫っていた頃の過去の体験を記憶の彼方から鮮やかに呼び覚ましたからに相違ない。
その「私たちの」と思わせたものは何か。それは版画が身近な生活に根差した美術であることを学校教育のなかで体験してきたからである。この「生活に根差した」版画は、第二次世界大戦直後の日本社会で重要な役割を果たした。それは戦前戦中と抑圧され、取り締まりの対象とされてきた労働運動・農民運動、そして自由や平和追求などの切実で広範な民衆の声を代弁する美術として機能してきたからである。
中国木刻と2つの民衆版画運動
展覧会が取り上げた2つの民衆版画運動のうち、日本版画運動協会による「戦後版画運動」の影響は、多くの人々が初めて知る歴史的事実であったはずである。それは、戦後まもなく始まった中国木刻画(木版画)の全国巡回展の開催と、その作品群が地域社会や職場、そして教員だけではなく児童も含めた学校教育現場に浸透していくプロセスである。「中国木刻のインパクト」(第1章のタイトル)は、終戦直後にそれらを見た人々だけではなく、本展来場者にとっても同じく衝撃だったであろう。
中国の創作版画「木刻」は、日本の創作版画運動から20年ほど遅れて始まった。国民党政府と共産党軍との勢力争い、そして日本の侵略など、中国の民主革命と独立が社会の課題であった時代、その意識を民衆に普及させるためのメディアとして版画は役割を果たした。魯迅がその提唱者である。彼に学んだ版画家は、中国の混迷する政治状況や民衆の困窮する姿を作品に仕上げた。民衆を覚醒させるためだ。
社会改革や市民革命を使命としていた魯迅には、日本の創作版画が見るべき側面のない芸術家の手なぐさみと映り、かたや恩地幸四郎は、中国版画は社会主義リアリズムと同様で美術的価値は低いと論じたのも、当時の両国が抱えていた社会状況が異なっていることを考えれば無理もない。しかし、戦後の日本の民衆に受け入れられるかどうかという視点ではどうだったか。戦前のプロレタリア美術運動などに参加していた左翼系の版画家たちは、東京と神戸で行われた中国木刻展での民衆の反響を見て、「民衆美術」として広がる可能性を感じ取った。戦後民主化運動のひとつの手段として生かそうと考えたのだ。これは、日本版画運動協会を組織した彼らにとってまたとないチャンスであった。
中国木刻は、「自分たちのことを描いている」と日本の民衆に受け入れられ共感された。戦前の創作版画普及活動がついに大衆化を果たすことなく戦後を迎えたことを踏まえれば、民衆の厳しい現実社会の矛盾を代弁することが、一時的にせよ版画芸術に背負わされた使命であったとしても、それは時代が求めたものとして受け止めなければならない。版画講習会を魯迅の要望で行った内山嘉吉による著書『魯迅と木刻』(奈良和夫との共著、研文出版、1981年)にある、神戸大丸百貨店で開催された中国初期創作版画展の会場での「大衆の率直な感動」は、このことをよく表している。
2つ目の民衆版画運動は、生活綴方(作文)教育と結びついた「教育版画運動」である。言うまでもなく学校での版画教育であり、自分の身近な生活を見つめ直し、たくましく成長する自覚的人間を育てることにあった。綴り方(作文)と版画制作で人間的成長を促そうというのである。
展覧会では、この2つの運動の連関がはっきりと指摘されており、戦後の民衆版画運動の広がりを理解するうえで非常に重要なポイントをとらえていた。戦後版画運動がなければ、その後の教育版画運動の広がりはもっと限定的だったはずだ。この広がりのキーワードが「生活に根差したリアリズム」だった。
山本鼎と2つの民衆版画運動
「版画運動」「学校教育」「民衆」「生活」「リアリズム」など、ここで述べてきた言葉を列挙していくと、そこには1910~20年代にかけて活躍した山本鼎の姿が浮かぶ。2つの民衆版画運動を率いた太田耕士は、この山本の版画運動・自由画運動を意識していたという。
そもそも近代的意味での版画芸術が日本で意識され確立されたのは、明治末から大正時代にかけてである。その代表的人物が山本鼎であった。山本は少年期を彫版職人として過ごした経歴を持ち、創作版画の確立と、個性の尊重と創造性の発露としての美術教育を主導した。彼の業績は主に「版画芸術の確立」「児童自由画教育」「農民美術(工芸)運動」の3つに集約できる。とくに版画芸術の確立は、戦前の学校現場への版画教育普及の基礎を成していたことを心にとめておきたい。1918年、山本は織田一磨、戸張孤雁らとともに日本創作版画協会を設立し、創作版画作品の発表と普及を図っていった。東京と関西での展覧会の実施などにより、それらの情報は小中学校の図画教員たちの注目するところとなり、これまで取り組んだことのない「版画」という新しい美術表現を教科に取り入れようとする人々が現れる。
代表的なのは、教員として学校に勤務した宇都宮の川上澄夫、愛知の大岩忠一、奈良の武田新太郎、大分の武藤完一らである。また、戦前に兵庫で小学校教員を勤めていた太田耕士もそのひとりであった。1925年に神戸で発行された『HANGA 児童作品集』には、奈良、東京、新潟、宇都宮、京都などの学校の児童生徒の作品が収録されていることから、大正時代の末までには濃淡の差こそあれ、日本全国の学校現場の要所要所に版画教育が取り入れられつつあったことがわかる。1928年から1940年まで、平塚運一が大岩忠一のいた愛知・亀崎小学校を手始めに全国30校あまりで版画講習会を開いており、学校教員への浸透が図られていったのだ。教員が講習を受け、児童生徒が授業で版画を制作するという土壌ができあがっていった。各地に教員たちや愛好家による創作版画誌が続々と刊行されていったのにはこうした背景があった。そのピークは1930年代である。
戦前の創作版画誌や児童生徒の版画を見ていくと、そこには確かに「民衆」や「生活」に根差した題材は取り上げられている。ただし、それは戦後民衆版画運動で表現されたそれらとは異なる。戦後の「苦悩する民衆」や「見つめ直し乗り越えるべき生活」ではなく、そこにあるのは版画というメディアの間接性や偶然性の面白み、造形的な要素を取り上げるために「身近な題材」を取り上げたという意味にとどまっている。
山本の美術運動は「生活に根差した美術」「名もなき庶民が担う芸術表現」を目指し、「そのための伴走者としての自分の立ち位置」を自任していた。そして、プロレタリア芸術家が目指す政治体制の転換や国家体制への反抗などを含む政治的イデオロギー実現のための、または、政治的イデオロギーを帯びた芸術運動には与しなかった。山本の願いは、一般民衆の芸術的精神の涵養であり、そのための「創作版画」であり「児童自由画」であり「農民美術運動」だった。
戦前の自由画教育とその一環としての創作版画の流れを汲む学校での版画教育の地盤が各地の教員により培われていたことが、戦後の教育版画運動の基礎となったことは事実である。山本による民衆の芸術的精神の涵養にとって代わり、明確な動機づけが行われたのが、太田らが推し進めた「生活に根差したリアリズム」であったのだ。自分と社会を見つめ直し、その矛盾を自覚し乗り越えていくたくましい子供を育てるという教育目的に、版画が奉仕するかたちとなった。それでも太田が山本を参照したのは、かつて教員として勤務した経験があるように、子供たちが自立した人間として成長することを願う教育者としての視点を、太田が持ち合わせていたことと無関係ではあるまい。山本の版画の普及という理想は、彼の死後、太田ら左翼系の版画家や教育の民主化を目指す現場の教員たちによって、図らずも実現されたのである。
版画制作を通した人間教育の行方は
本展に『たのしい共同制作』(1960)という映像資料があった。クラスのみんなで何をテーマにするか、どのように分担するか、すべて子供たち自身が意見を出し合い、議論し決めるのである。妹を背負ったある子は家の仕事の手伝いがあるので帰るという。他の子は彫るのに夢中で放課後になってもまだやめる気配がない。そうした子供たちを教員は温かく見守り導いていく。映像を通して見た「教育版画」「生活版画」の生き生きとした姿から、この教育映画の制作に関わった太田の思いが伝わってくる。版画制作を通した人間教育の様子をしっかり受け止めることができる。かつて山本は、その著書『自由画教育』(1921)のなかで「自由画教育とは愛をもって創造を処理する教育である」と述べたが、太田をはじめとする教育版画運動に携わった人々もまた、子供たちの健やかでたくましい成長を願う愛情が垣間見える。
ひるがえって、現代において民衆に働きかける版画の位置というものは、どこかにあるのだろうか。現在の学習指導要領では、すべての教科で「対話的で深い学び」を通じて「生きる力」を培うとしている。そのなかで小学校の図工では「版に表す経験」として版画教育が示されているが、すでに子供たちは戦後のような家族と自分とが農作業などの生活と一体となった労働から切り離され、子供たちの現実は帰宅後の家庭、学校・学習塾、あるいはネット環境のなかに大方が存在している。版画は造形活動のひとつとなり、実施されない学校もある。版画を教育のなかでどのように取り扱うか、他の造形活動から取り立てて区分すべき必然性は見出しづらい社会となった。
いっぽう戦後の美術系大学では、相次ぐ版画専攻の新設のなかで専門的教育が充実の時を迎え、近年では版画専攻の名称がグラフィックアーツ専攻に変更される動きが出るなど、他分野との境界を横断する方向へ向かっている。かたや地域社会では、デジタルネイティブ以前の世代を中心とした版画サークルが、創作版画の進化形として作品を制作している現状がある。版画における専門教育の有無が、世代とグループを分け隔てる壁となっている。
そして、かつて版表現が担った人間や社会のありようを問い、課題を共有するメディアとしての役割は、映像やSNSなどをはじめとする情報ネットワークの多様な選択肢によって相対化されている。そのような現代において、「民衆の版画」という共感軸が成立するのは至難の業であるというのが正直な印象である。
「ほることによって働く人の心にふれ ほることによって働くねうちを知っていく 毎日の働く姿に強く生きようとする くらしのうたがにじんでいる」と綴られる『くらしのうた』(1960年、三重県多気町立津田小学校6年)という版画集を会場で目にしたことを思い起こした。「価値」でも「コスパ」でもない、子供自身が発した「ねうち」という言葉にはっとさせられた。子供たちの「生」と版画教育が一体化していたことを示す真実の言葉だ。現代の版画(教育)だけにそうした使命を求めることはできまいが、いまを生きる我々の魂を揺さぶる美術(教育)というものが、人々の共感をもって迎えられる機会が巡ってくることを期待したい。そして、戦争や気候変動などの社会を揺るがす重大事がその契機とならないことも願わずにはいられない。