貧困への怒りをアートに。アーティスト・松田修に迫る
映像や立体、絵画など様々なメディアを駆使し、社会問題や現象をモチーフにした作品制作を続ける松田が照射してみせるものとは? キュレーターで横浜美術館館長の蔵屋美香が論じる。【Tokyo Art Beat】
昨今、美術館やギャラリー、オルタナティヴスペースといった展示の場で、年齢や性別、出身地、障害の有無などの点で出品作家に偏りが生じないよう注意が払われるようになった。美術界にも変化が生じているのだ。
しかし、それでも美術の土台を成す部分には、いまだ強固な同質性が気づきにくいかたちで根を張っていることがある。
たとえば、あるギャラリーで展覧会が企画される。そこに集うアーティストやキュレーターは、たとえ年齢、性別、出身、障害の有無などの面で多様であっても、そのほとんどが大学や専門学校で美術を学んでいる。つまり、美術というものがこの世に存在し、それを学ぶ方法があることを知っており、そのうえで美術の価値を多少なりとも認めて進学費用を負担する人がいてはじめて、彼らはこの場に集っているのだ。
インドの経済学者、アマルティア・センの「ケイパビリティ(潜在能力)」という概念がある。個々人が持つ選択肢の多寡に焦点を当てる考え方である(*1)。
平等とは何かを問うなかで、センは、そもそも人間は多様であり、何を幸福とするかも様々だから、「多様」でありつつ「平等」であるための道を探らねばならない、と考えた。そこで、真の平等の実現は、「多様」な道を選ぶ機会が誰にでも「平等」に与えられているかどうかにかかっている、という説を唱えるに至った。
選択肢の束は、すべての人が等しく持っているわけではない。先ほどの美術の話もそうだが、たとえばある子供が宇宙飛行士になりたいと思うためには、まず宇宙飛行士という職業があり、そこに達する学びのルートがあることを知らなければならない。情報を与えてくれるのは、身近な大人かもしれないし、学校や本、インターネット、博物館かもしれない。こうした出会いをもたらす環境なしに、子供が宇宙飛行士という職業を思いつき、将来の選択肢に加えることはないのである。
さて、松田修の話である。
森美術館で開催中の「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」(2022年12月1日~3月26日、キュレーター:近藤健一、天野太郎、レーナ・フリッチュ、橋本梓)に、松田のインスタレーション作品《奴隷の椅子》(2020)が出品されている。モニター画面に現れるのは、デジタル処理によりぎくしゃくと動くひとりの女性の写真だ。女性は、高校を出てすぐに働き始め、やがて小さなスナックを持ち、3人の男の子を育て、親を介護し、コロナ禍で店を閉めるまで必死に働いた自分の人生を語り出す。
この女性のモデルは松田の母親である。女性のセリフは母親へのインタビューに基づいており、その奇妙な裏声は松田のアテレコによる。
松田の実家は、兵庫県尼崎市の売春街近くにある。日本では1957年の売春防止法施行以来、売買春は禁じられている。しかし「かんなみ新地」と呼ばれるこの地区は長く法の目をかいくぐって営業を続け、2021年、コロナ禍をきっかけにその歴史に幕を下ろした。以後このテキストでは、松田の流儀にしたがってこのあたりの地域を「尼(アマ)」と呼ぶことにしよう。
作品には女性の次のようなセリフが出てくる。
19歳で長男を産み、当時母親が働いていたスナックで働きはじめました。働き口はこれ以外考えられず、友達も多く働いていたので、抵抗はありませんでした。[中略]実家も貧乏だったので、専門学校や大学に進学することは考えたこともありません。私の街では普通のことでした。
私は、もうちょっと賢ければ飛行機の客室乗務員になりたかったんです。なり方もわかりませんが。いろんな国に行きたかった。自分の人生に後悔はありませんが、自分で選んだ人生ではなかったと思います。
これらの言葉は、先ほどのケイパビリティの考え方の核心を突いている。女性の生きた環境には、高校以上に進学するための、また客室乗務員という職業に就く道のりを知るための可能性が欠落していた。「自分で選ぶ」ことのできる道は、そもそも非常に限られていたのである。
松田もまた、アーティストを目指して進学するような環境に育ってはいない。冒頭の例に戻るなら、専門教育を受けた人びとが集う美術の場に加わる可能性は本来低かっただろう。しかしいくつかの偶然により、東京に出、働きながら予備校に通い、大学進学を経てアーティストとなった。この経緯については、昨年行われたトークの記録(*2)を参照してほしい。ここでは、松田が尼の環境から、本人によれば「うっかり」越境するきっかけとなった要因のいくつかをあらためてあげておこう。
ひとつは自転車である。芦屋、宝塚、三宮といった周辺の高級住宅地に自転車で遠出をするようになって、少年時代の松田は、尼とは異なる世界があることを知った。ここで松田は、恵まれた環境に最初から生まれる人びとがおり、自分たちがどれだけ働いてもそうした暮らしに届くことはないという不平等な現実への怒りを育んだ。
もうひとつはテレビである。自分の志向に合うものばかりを勧めてくるインターネットとは異なり、他人が決めたプログラムが一方的に流れるテレビには、予想外の出会いをもたらす可能性が潜んでいる。松田は子供時代から、大人たちが不在の家でテレビをつけっぱなしにし、もっぱら映画やお笑いを見ていたという。
3つ目はサブカルチャーである。高校進学を機に、働きながらひとり暮らしを始めた松田は、バイト先の先輩の影響もあり、『STUDIO VOICE』『DOLL』といった雑誌を通してサブカルチャーの世界を知った。HIP HOP、ノイズミュージックなどの音楽に興味を持ち、またデヴィッド・リンチの諸作品にも触れた。このなかで、やがてポール・マッカーシー、会田誠、田名網敬一など、サブカルチャーと地続きの表現をする美術家たちに出会うことになる。
こうして松田は、サブカルチャーを経由して美術の領域にたどり着いた。阪神淡路大震災の翌年、1996年から2000年ぐらいまで、1979年生まれの松田が高校1、2年から20歳前後の短い時期である。
1995年にWindows 95が登場したとはいえ、インターネット全盛のこんにちとは異なり、この時代のテレビと紙媒体の雑誌にはまだ勢いがあった。先に述べたように、テレビにおいては視聴者がプログラムを選ぶ範囲は限られている。また当時のサブカルチャー雑誌は、切れ味のよいグラフィックという共通項によって、幅広いジャンルの情報を横断的につなげて見せていた。予期しない出会いをもたらすしくみを内在させた、インターネット以前のふたつの媒体は、松田が尼から外に世界を広げるための格好の培養器となったのだ。
《奴隷の椅子》に話を戻そう。この作品について松田は、先にあげたトークで次のように述べている。
貧困を生む構造に対する怒りは一生消えないけれど、近年、直接的に怒ったりするのではなく、うまく呪う方法はないかと考えています。実際に貧困と関わらなくても、そのことを見る人に考えさせる。これを僕は「呪い」と呼んでいます。呪いらしい呪いにすると、見るひとはいやがりますが、一見やさしそうなもので呪いをかけることはできる。その意味で、《奴隷の椅子》はとてもうまくいったと思います。ぜんぜん知らない人生を体験して、その先ずっと考えてしまうしくみを作ることができました。
つまり《奴隷の椅子》は、貧困に対する怒りの表し方を調整し、「やさしい呪い」とすることで、多くの人へのアプローチが可能になった、画期を成す作品だというのだ。
では、《奴隷の椅子》以前に制作された、人がいやがる「呪いらしい呪い」を表す作品とは、一体どんなものなのだろうか。