「スギ林」派大隈重信と「常緑広葉樹林」派の本多静六が論争して造った人工林、100 年かけて育った「明治神宮の森」
明治天皇崩御をうけ、どのような歴史をへてこの森が造られてきたのか。
明治神宮はJR山手線の原宿駅をでて神宮橋を渡れば目の前である。
明治神宮は武蔵野台地東部の淀橋台にあり、総面積は72ヘクタール、東京ドーム15個分に相当する。
神宮の大部分は台地上の平坦地であるが、そのなかには小さな流れを持つ渋谷川の支流が谷を形成している。北池の谷戸、東池の谷戸、南池の谷戸の三つの谷戸があり、そこを流れる小川はいずれも北から東へまわって渋谷川に注いでいる。
神宮の鳥居の前の広場に立つと、クスノキを中心とした大木が鬱蒼と繁った森に圧倒される。この森は約100年前に造成された、れっきとした人工林である。しかし、一見したところでは自然の森と見間違えるほど大木が林立する立派な森である。計画的に造成すれば、約100年で武蔵野台地にもこのような森ができるという証明でもある。
本項では松井光瑶氏他の『大都会に造られた森』や田中正大氏の『東京の公園と原地形』などいくつかの文献情報をもとに神宮の森について見ていこう。
明治45年(1912)7月30日、明治天皇が崩御されると、早速、三井創始者の渋沢栄一と娘婿の阪谷芳郎東京市長が中心となって神宮造営運動を開始した。その熱意が実り、大正2年(1913)3月20日に衆議院で神宮の造営が決定された。
古来、神社は荘厳で静寂な森に囲まれて鎮座してきたことから、造営する神宮にもそのような森を必要とした。そして、森が存在するか、荘厳な森を創ることが可能な場所を造営の候補地として選定することとした。
それを受けて各方面から候補地が内閣や内務大臣に提案された。
東京府内では青山練兵場跡(現在の神宮外苑)、代々木御料地、陸軍戸山学校敷地、小石川植物園、白金火薬庫跡地、豊多摩郡和田堀村、御嶽山など、東京以外では茨城県の筑波山、国見山、神奈川県では箱根、千葉県では国府台、埼玉県では宝登山、飯能朝日山、遠く静岡県の富士山などであった。
そのうち、山紫水明の地としてもっとも陳情が多かったのが富士山と筑波山であったが、両方とも環境はよいが、参拝者が訪ねるにはいささか遠い。
議論を重ねた末、大正3年(1914)4月2日、最終的に現在の地、代々木御料地に決定した。この場所は彦根藩井伊家の下屋敷の跡であった。この地には江戸時代から幹の周囲10・8メートルのモミの木があった。モミの別名を「代々木」ということから、その場所が代々木という地名で呼ばれていたという。残念ながら、そのモミの巨木は、第二次世界大戦時に米軍の空襲を受け焼失した。
この大森林が形成される前の代々木はどのような自然であったのだろうか。
御料地の西および南西部(現在の代々木公園一帯)には陸軍の代々木練兵場があった。また、現在の菖蒲田や清正井がある谷津田に作られた庭園地域と、それにつながる参集殿から大鳥居付近一帯はコナラ、クヌギ、アカマツ、イヌシデなどの雑木林となっていた。その名残はいまでも菖蒲田までの歩道周辺に見ることができる。
また、社殿地域はアカマツ林が広がる地域であった。そのほかの地域は農地、苗圃、草地などで、それらが全体の80パーセントくらいを占めていた。また、その地域内には20軒あまりの農家があったという。全体を概観すると、造営予定地域は、昔ながらの武蔵野が広がる牧歌的な空間であったといえる。