大阪コリアタウンの歴史にふれて 焼き肉やキムチ普及の経緯も…生野の歴史資料館
資料館は、画家でもある洪理事長がアトリエとして使っていた木造2階建て延べ約90平方メートルを改修して造った。建物正面には、在日の詩人、 金時鐘キムシジョン さん(94)の詩が刻まれた「共生の碑」が立つ。
館内には約2000冊の書籍と約2500点の写真を保管しており、その一部を展示。大阪コリアタウンの変遷や地域の祭りなど、在日コリアンの暮らしを紹介するほか、日本の小中学校と朝鮮学校の交流の歴史や猪飼野が舞台となった映画、日本に焼き肉やキムチが普及した経緯も伝える。
子どもの頃、学校に行けなかった在日コリアン1世の女性らが、同タウン近くの夜間学校「オモニハッキョ」で学んだ日本語で思いをつづった文集も展示し、韓国のスイーツや飲み物を扱うカフェを併設した。
大阪コリアタウンの一帯には、大阪が「東洋のマンチェスター」と呼ばれた1920年代、工場や平野川の大規模改修工事に仕事を求めて、朝鮮半島から多くの人が移住した。22~45年に済州島と大阪港を結ぶ定期連絡船「君が代丸」が就航していたことから、今も多数の同島出身者やその子孫が暮らしている。
戦後、韓国食材や民族衣装の店舗が並んで発展したが、商店主の高齢化などで衰退し、73年には猪飼野の地名も消滅した。だが、88年のソウル五輪や2002年の日韓サッカーワールドカップで息を吹き返し、韓流ブームもあって、コロナ禍前の19年には、若者を中心に約200万人が訪れた。