猪瀬直樹×鹿島 茂 作家としての石原、現象としての慎太郎――没後1年を機にとらえ直す
(『中央公論』2023年3月号より抜粋)
――石原慎太郎氏が亡くなって2月で1年になります。一周忌に向けて、猪瀬さんによる評伝『太陽の男石原慎太郎伝』が刊行されました。
鹿島》猪瀬さんは都知事を経験されて国会議員にもなり、石原さんと同じようなキャリアになってきましたね。より深く彼をわかるようになってきたのではないですか。しかし、そもそも、なぜ評伝を書くことに?
猪瀬》石原さんが亡くなった翌日にこの本の担当編集者から電話があったんですよ。「彼の実像を作品論と併せて書くべきじゃないか」と。一回は断ったけど、その後「いや、待てよ。これは俺しか知らないな」と思うことがいろいろ浮かんできて、やっぱりやることにしました。石原さんという人は誤解されているんだよね。まぁ僕もわりと誤解されているけど……。
鹿島》たしかに、猪瀬さんは誤解されている。
猪瀬》そう?(苦笑) 石原さんは失言も多くて毀誉褒貶がつきまとったけれど、そうじゃない姿を僕は知っているから。面白いんだよ、あの人は。僕が副知事やってた頃、都庁で式典があって「君が代」を歌うときに、彼だけは「君が代は~」と歌ってなかったんだよね。初めて聞いたとき、横にいて「あれ? なんか違うな?」と思うわけ。それで次の機会に耳を澄ませてみたら「わが日の本は~」と歌っている。「変な人だなぁ」と思ったね。
鹿島》私がいちばん石原さんが誤解されていると思うのは、小説家としての評価が低すぎるということです。彼が書いた『亀裂』(1958年)は非常に良い小説で、戦後のベストテンに入るものだと思う。
猪瀬》そうなんだよ。『太陽の男』を書こうと思った理由として、そこは非常に大きかった。彼は昭和31年(1956年)に「太陽の季節」で芥川賞をとって世に出てきたわけだけど、この年は『経済白書』に「もはや戦後ではない」と書かれた年でもある。戦後日本の一つのターニングポイントなんですよ。
鹿島》その後、昭和32年に岸信介内閣が成立して、神武景気が終わって鍋底不況を経て岩戸景気となり、昭和35年に安保闘争がやってくるわけですね。
猪瀬》そして昭和35年というのは1960年、つまり60年代の始まりなんだ。当時、文学では三島由紀夫が王者として君臨していて、それに次ぐ者として大江健三郎が登場した。60年代の学生はほとんど『亀裂』なんて読んでいなくて、たとえば大江の『厳粛な綱渡り』(1965年)などを読んでいるのが9割という感じだったよね。
鹿島》そう、我々の世代の文学青年は三島や大江には憧れていたけれど、石原慎太郎はそういう点では一段格落ちという捉え方だった。
――しかし『太陽の季節』は一種の社会現象になっていたわけですよね。
猪瀬》小学生の頃に映画『太陽の季節』のポスターを見たときの強烈な印象は今も覚えている。街のあちこちに水着姿の男女のポスターが貼ってあるから、学校の行き帰りに見かけるわけだ。周りの大人が「あれは不良の映画だ」と言っているのが聞こえてくるんですよ。「不良」って言葉はそこで覚えた。我々の世代にとっては物心ついたときから石原慎太郎には毀誉褒貶があって、すでに価値紊乱(びんらん)をやっていたんだよね。
鹿島》僕も当時のことはよく覚えてますよ。それこそ〝慎太郎刈り〟ってヘアースタイルが流行ったように、あの頃の石原慎太郎という存在は文学云々よりも風俗現象として大きかった。風俗的な価値をひっくり返したわけだ。「太陽族」という言葉が使われたからこそ、その後も新しい風俗が登場すると「カミナリ族」とか「六本木族」と呼ばれた。映画史的にも、戦前は名門だったのに戦後は低空飛行が続いていた日活が、『太陽の季節』をきっかけに石原裕次郎が出てきて、ダントツの人気になった。やはりあの兄弟が戦後に残した影響は非常に大きい。