司馬遼太郎生誕100年 独創性なき苦労人 「覇王の家」で描かれた徳川家康の実像
生誕の地・愛知県三河地方の岡崎城(岡崎市)。今月21日、天守閣内の展示がリニューアルされ、岡崎公園内に大河ドラマ館がオープンする。
「五万石でも岡崎様は お城下まで船が着く」-。ほとりを流れる乙(おと)川と矢作(やはぎ)川が織りなす景色からは、そんな唄にあるように水運の要衝として栄えた往時がしのばれる。
司馬さんは『覇王の家』で、起伏ある生涯から家康という人物を考察した。
三河の山間部にある松平郷(同県豊田市)からおこった松平氏を始祖に持ち、岡崎城主の嫡男として出生した。幼少期より織田家や今川家の人質となるなど苦労した三河の男が、徳川260年の礎を築いたことで、日本人の後天的性格にさまざまな影響を残したと司馬さんは説く。
米作地帯でかつ商業が盛んな隣国・尾張に比べ、山地の多い三河の人間は《質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずるという点で、利口者の多い尾張衆とくらべてきわだって異質であった》-と。
作中、家康の性格を物語るエピソードがいくつか紹介されている。
今川家の拠点でもあった駿府(静岡市)での人質時代、桶狭間(名古屋市)で今川義元がまさかの戦死。だが、家康は今川家臣が守る岡崎城にいきなり戻らず、今川家に義理立てをした上で入城するという用心深さを見せる。
一方、三方ケ原の戦いでは、何事にも慎重な家康が周囲の反対を振り切り、上洛しようとした甲斐(かい)の武田信玄を迎え撃って大敗北。逃げ延びたが多くの家臣を失い、後々までこの敗戦を教訓とした。
信長の命で嫡男の信康を切腹させる苦渋の選択をした一方で、それを促すことになった配下の酒井忠次を罰するどころかその後も重く用いた。また、三河一向一揆で一揆側にくみした家臣たちを再び迎え入れた。
お家存続という目的のために、我慢に我慢を重ねる三河人らしい忍耐強さを司馬さんは、人間関係の機微を熟知した《人質あがりの苦労人》は《どういう苦汁も飲みくだす》と評した。
そんな家康が、豊臣秀吉の死後、乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負に出る。忠義もルールもかなぐり捨てて、天下取りに邁進(まいしん)する。天下分け目の合戦を見つめた『関ヶ原』、豊臣家が滅ぶ大坂の陣を描いた『城塞』で司馬さんは、知略を駆使する老獪な家康を出現させている。
「家康の狸おやじっぷりがすごい。いろんな顔を持っている家康だからこそ、司馬さんはさまざまな作品で描いた」。そう指摘するのは、京都府出身で滋賀県在住の作家、今村翔吾さん(38)だ。
家康の人気は、東西で分かれる。豊臣家を滅ぼし、天下を手中に収めた家康を好まない関西人は多い。
今村さんは「どちらかといえば僕も好きではなかったが、歴史作家としてみれば、戦国期ただ一人の勝者として相当な人物だと分かる」と語る。
『覇王の家』で家康は、《徹頭徹尾模倣者》で、《独創性薄くうまれついていた》と書かれた。江戸を大都市へと計画した『家康、江戸を建てる』を書いた群馬県生まれの作家、門井慶喜さん(51)はこうみる。
「裏を返せば学習能力が高いということ。戦国初期は確立されていなかった戦い方も後期になって成熟する。天下がまとまってくる戦国後期の段階では、独創性より学習能力の高さが有利になったはず」
今回の取材で、いま最もホットな家康を司馬作品から改めて見つめてみたいと思った。
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今年、生誕100年に当たる司馬さんのさまざまな名作の舞台を記者が訪ねます。(随時掲載)