陶芸家が残した知られざる写真。清水穣評「キュレトリアル・スタディズ15:八木一夫の写真」展
写真と陶芸にはある種の平行性がある。どちらも「焼く」ものだから、とはいまでは理解されない冗談であり、美しく焼かれた印画紙が磁器肌を連想させるなどと言ってもますます通じにくい。そこでまず傍証から埋めていけば、民藝運動の柳宗悦には小さな写真論があり、骨董の目利きで知られる青山二郎は晩年に木村伊兵衛の写真を評価した。土門拳の骨董好きは有名であるし、古陶磁を撮影したシリーズの、黒地に器をくっきりと浮かび上がらせるそのスタイルは、現在でも大きな影響を与え続けている。「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」とは森山大道が彼の「記憶」の時間交錯的な本質を語った言葉であるが、現代の焼き物と古陶磁の関係を言い当てている。「過去は」=古陶磁は、その美がいまなお人を圧倒するという意味で「いつも新しく」、それを理想として現代の焼き物を見れば「未来は」=これから焼かれる優れた陶磁は、古陶磁を連想させるから「つねに懐かしい」と。
写真と陶芸の平行性は用語のレベルでも顕著である。柳宗悦の「直下」を「ストレート」に、「美」を「リアル」に置き換えれば、民藝の理論は苦もなくモダニズム写真のディスクールに翻訳できる(*1)。スナップ写真は写真における「民藝」なのだ。「自然」「日常」「裸」「素直」「純粋」「あるがまま」など、両者は多くのコードを共有している。「あるがまま」とは、人間社会の意味や価値のシステムに囚われない自由で自然な状態のことである。美醜、善悪……のように対立する価値によって差異化された社会と、その「外部」という二元論を措定し、芸術の使命は絶えず前者を脱差異化して後者へと至ることだとする、それが「あるがままの倫理」である。モダニズムとは、この二元論に洗脳された状態のことだ。写真、陶芸に限らず、モダニズムの芸術は共通の傾向を示すわけである。
シュールリアリズムはこの倫理の実践論理である。あるがままの世界は、見慣れた現実(リアリズム)に埋もれてしまっている、だからその現実を分解、洗浄、再構成せよ、つまり芸術的作為(無作為・偶然を利用する作為も含む)によって、あるがままの姿(シュールリアルな世界)を露出せよ、と。芸術的作為は自己表現や芸術美のためではなく、世界を「あるがまま」の状態へ還元する引き算の技法、脱差異化の技法なのである。あるがままのモノ自体、名付けえず定義不能の「なんでもないもの」、それを目指して現実の物体を分解、洗浄、再構成した「モノ」、それが「オブジェ」であった。
八木一夫の「オブジェ焼き」は、八木がモダニストであったことの証である。しかしオブジェ焼きには、現代美術のオブジェにはない、ねじれがある。「あるがままの倫理」に従う陶芸にとっては、素直な直截性こそが尊く、作為と計算は卑しい。だが、モダニズムの芸術を遥かに先駆けて実際に陶芸界を支配していたのは、直截を作為し偶然を計算するという倒錯であった。目利きが評価する古の陶磁器のあるがままの「素直さ」を、引き算の技法を使いこなして巧みに演出することで、陶芸の巨匠たちは人間国宝になった。『プロヴォーク』の中平卓馬が、広告化した偽の「リアル」「あるがまま」に激しく抵抗したように、陶芸界に蔓延する偽の直截性に抵抗したのが、走泥社の八木一夫である。それは走泥社結成時の宣言文に明らかだ。「虚構の森を蹴翔つ早晨の鳥は、も早、眞實の泉にしか自己の相貌を見出さぬであろう(*2)」。あるいは「私は、本当の無邪気、素直な素直による美へと憧れた。[…]あらゆる文化が複雑化し、
ものも、ことも、そもそもが並の接触だけではとらえようのない現代なのである。錯綜した日常の底の歯がゆさのようなもの、渇きのような心情が、おのずとかもし出した、直截
への憧憬だった(*3)」。八木のオブジェ焼きは、「天工」をうそぶく巨匠たちの偽の直截性を批判して「本当の」直截性を表現するために、あえて人工的な造形としてつくられたのであって、作家の近代的自我の表現などではない。この「あえて」が、八木のオブジェにつねに余計な、過剰な批評意識に由来するダサい一手を加えさせていることは否めない。むしろ、「ちゃわん屋」としての八木の器の作品群のほうが、作品と批評意識のバランスが取れていて興味深いとすら言える。それでも、偽の純粋に塗れた陶芸を真に純化しようと、「素直な素直」という困難な極点を目指して八木一夫は生き急いだのだった(享年60歳)。
本展は、八木明の協力の下に、八木一夫が遺した膨大な写真群──それはたんなる家族写真ではなく、彼自身が撮影し編集して10冊ほどのスクラップブックにまとめたという意味で準作品群と呼べるコーパスである──を、2年かけて整理しアーカイヴ化した成果として、初公開されるもので、まさに「キュレトリアル・スタディ」と呼ぶにふさわしい展覧会である。上に見た通り、八木一夫と写真のあいだに本質的なつながりがあることはわかっていたので、八木が写真作品を遺していたと聞いて驚きはしなかったが(それに写真を遺さない作家がいるだろうか)、こうして具体的に昔のプリントを目にできることは喜ばしい(1960年代のプリントは艷やかで美しいものである)。また、カタログ代わりに出版された『八木一夫の写真 カメラを手にした前衛芸術家』(京都新聞出版センター、2021)は、いわば八木一夫写真集として展示作品以外の写真や八木自身によるキャプションを教えてくれる。唯一、残念だったのは、展示された「作品」が、元写真をスキャンし、サイズをすべて揃えて出力したデジタルプリントのパネルにすぎず、そのクオリティも低かったことである。オリジナルプリントの黒さを再現できず全体的に青味に偏り、統一サイズも微妙に小さすぎた。実物のスクラップブックが並んで展示されていたのが救いではあったが、展示パネルの貧しさを際立たせてもいた(もし巡回予定があるならば、パネルはすべてつくり直したほうがよいのではないか)。
八木の写真は、写真作品として特に個性的で独特というものではない。写真好きが機会に応じて撮りためた日常スナップにほかならない。撮影時期が1960年代初頭を中心としている(1918年生まれの八木は40代)ことを考えると、その写真は、そこに見て取れる構図やアングルの工夫、表面の質感や部分への眼差し、主題の明確さ(作者が何を撮りたかったのかが、たいてい一つに絞られている)からして、50年代の写真雑誌の一般投稿欄のレベルであって、土門拳や木村伊兵衛になびいて、同時代的にもやや古臭い。だがそこには、八木が自らの陶芸には決して許さなかったであろう、素直さと自由さが溢れている。「ねじれ」を知らぬ写真は、しっとりと鄙びた1960年代の京都の生動を、桂大橋や十条界隈そして大阪京橋外れに吹き溜まった戦争の名残を、そして作者の家族と友人の微笑ましい姿を、Twitterのような気軽なコメントとともに伝えてくる。むしろ、その後の日本写真の展開(VIVOやプロヴォーク)が、八木を写真から遠ざけたのかもしれない。八木にとって写真は、シャッターを押せば自動的に「あるがまま」が写る素直なメディアだった。つまり焼き物ではなく、オブジェ焼きの寛いだ余白であった。
*1──清水穣「眼と被写体―柳宗悦・青山二郎・土門拳」参照。『日々是写真』(現代思潮新社、2009)所収。
*2──「我々の結合体は、“夢見る温床”ではなく、まさに白日の下の生活それ自体なのだ」と続く。「白日の下」という言葉も、中平卓馬に通じる(「白日の下の事物」)。植物図鑑とはオブジェ図鑑にほかならない。『没後二十五年 八木一夫展』(京都国立近代美術館、日本経済新聞社、2004)、293頁参照。
*3──八木一夫「私の陶磁誌」(1975)『刻々の炎』(駸々堂出版、1981)、31頁。
(『美術手帖』2022年2月号「REVIEWS」より)