門井慶喜の史々周国 旧武士が滅び去った場所 東京都千代田区・紀尾井坂
現場は閑静な住宅地。旧幕時代には紀伊徳川家、尾張徳川家、および井伊家の屋敷があり、それらのあいだの坂だから「紀尾井坂」と呼ばれた。明治になってからも人通りは少なかった。
被害者の名は、大久保利通。維新三傑のひとりといわれ、事件当時は政府で内務卿の要職にあった。当時の内務省というのは現在の総務省と警察庁と経済産業省と国土交通省と文部科学省を合わせたような一大機関であり、大久保はその長官、おそらくは現在の総理大臣をも超える専制的な存在感があっただろう。この日は太政官に出勤すべく馬車に乗り、おそらく坂道をのぼろうとしたところを襲撃されたのである。
犯人グループは、六名だった。馬車から大久保をひきずり出し、めったやたらに斬りつけたと思われる。強い殺意があったのだ。死体は頭部だけで少なくとも四か所の裂傷があり、ほかにも頸部や顔面、右腕、左腕、腰部、膝下内側等に傷があった。
急報を受けて駆けつけた部下の内務少輔・前島密(ひそか)は、その光景について、のちに生々しく述べている。
犯人たちは、まもなく自首した。姓名は挙げるに値しない。自首のさいには五か条から成る斬奸状をたずさえていたけれども、その内容も取るに足りない。要するに旧幕時代の武士たちが新政府によって身分も給料も刀剣携帯の特権も奪われたことに対して反撃に出た結果だった。
特に給料すなわち家禄については、生存に直結するだけに恨みが深かったのにちがいない。しかしながら大久保は、じつは家を出る前、福島県令・山吉盛典(やまよしもりすけ)の訪問を受けている。皮肉にも用件は安積疏水(あさかそすい)だった。
安積疏水のことは、以前この欄で述べた。猪苗代湖の水を東へ東へと引いて郡山(古名は安積)の広大な原野を水田にしようという近代最初の大開墾。そのための労働力には旧武士階級の人々をあてて、もって暮らしを成り立たせようとした。
いわゆる士族授産である。ただしこの時点では計画はまだ具体的ではなく、あくまでも構想を語るにとどまったようだが、そんなわけで大久保は、わざわざ早起きして旧武士の生活を案じたあとで、その旧武士に、生活できないという理由で殺されたのである。非業(ひごう)といえば、これほどの非業の死もないだろう。
さかのぼれば、それ以前にも、旧武士はさんざん世を騒がせていた。
佐賀の乱。神風連(じんぷうれん)の乱。萩の乱。そうして西郷隆盛の起こした西南戦争。みんな特権剝奪に対する蜂起だったし、みんな失敗した。
西南戦争のごときは一万人ほどが命を落とした。彼らは結局、あんまり気位が高すぎたのである。毎年何もしなくても着々とお米がもらえる立場にあまりにも慣れ親しみすぎていた。「働かなければ食べられない」という、こんにちの私たちにはごくごく当たり前のことを理解するには、彼ら自身、これほどの犠牲を払わなければならなかったのである。
大久保暗殺の犯人たちも、主観的には、やはり西南戦争ほかの英霊につづけとばかり気高い自己犠牲をおこなったのにちがいない。日本の武士階級というものは、おそらくこのとき、この坂で、最後の意地を見せた。あるいはこの坂で滅び去った。彼らはこののち身の誤りを理解したのだろう、たとえば安積疏水の事業では、のべ八十五万もの人間が熱心に労働に励んだ。刀を取って戦争や殺人をやるかわり、鋤鍬(すきくわ)で木の根を掘り起こすことを選んだとも言えるのだ。
現代の紀尾井坂には、むろん大名屋敷はない。けれども周辺には清水谷公園、ホテルニューオータニ、上智大学、高級外車の販売店など、いかにも落ちついた感じの施設が多いのは、時代は変わっても土地の性格は変わらないということか。清水谷公園には高さ六メートルをこえる大久保の哀悼碑が建てられている。