甲斐荘楠音。京都で見る、日本画と映画を越境した唯一無二の存在
楠音は戦前の日本画壇で高い評価を受けながら、1940年代初頭に映画業界に転身するという異例の経歴を持つ。晩年の70年代半ばから再評価の機運が高まるも、初の回顧展が行われたのは没後約20年を経た97年のこと。会場は今回と同じ京都国立近代美術館だった(同年、笠岡市立竹喬美術館に巡回)。その際、日本画家としての活動の全貌が明らかになり、「京都画壇の異才」として評価が確立した。
「甲斐荘楠音の全貌―絵画、演劇、映画を越境する個性」と題した本展は、美術館では二度目となる回顧展。その名の通り楠音の全貌と、日本画家の枠に収まりきらない「越境性」に焦点を当てたものだ。
展示は序章「描く人」、第1章「こだわる人」、第2章「演じる人」、第3章「越境する人」、終章「数奇な人」で構成されている。
序章は、楠音が24歳で「国画創作協会」に出品し、脚光を浴びるきっかけとなった《横櫛》(1916頃)をはじめとする代表作が並ぶ。ここだけでも「甲斐荘楠音展」と言えるような、エッセンスが凝縮されたセクションだ。喜多川歌麿を理想に掲げ、岸田劉生も意識していたという楠音。人間の匂いや温度までもとらえようと考えていたからこそ、その絵からは「生々しさ」やある種の「怪しさ」が漂っている。
こうした個性は家庭環境によるものが大きいと梶岡は話す。京都御所に近い裕福な家に生まれた楠音は生来病弱で、子供の頃から雅やかな人形や女性の着物などに親しんでいた。稀代の個性が成長できたのは、そうした幼い頃に芽生えた興味を家族が許容してきたことが大きく影響しているという。その強烈な個性を紐解くのが、1章から先のセクションだ。
楠音のひとつの特徴として、似たようなポーズの人物像を繰り返し描いたことにある。第1章の「こだわる人」では、スケッチ類から人物像に対する探究心の高さがうかがえることだろう。楠音は裸を「肌香」と言い表しており、《籐椅子に凭れる女》(1931頃)などからは、甲斐荘にとってその表現がいかに重要であったかが理解できる。
甲斐荘が人物像にこだわった理由のひとつには、芝居への関心の高さが関係しているのかもしれない。幼少期から歌舞伎を好んだという甲斐荘は、自ら女形として舞台に立つこともあった。第2章「演じる人」では、太夫や女形に扮した甲斐荘の写真も見ることができる。それらを見ると、甲斐荘が描いた女性たち=甲斐荘自身だったかもしれない、という感覚を抱かずにはいられない。
上述のように、楠音は日本画から映画の世界へと転身した経歴を持つ。その背景には国画創作協会の解散(1928)やその後に参加した新樹社の解消(1931)があるが、芝居への愛もその理由だったことは疑う余地はないだろう。
楠音は服飾に関する知識の高さから、時代劇の風俗考証を手がけるなど、そのセンスを映画の世界においても発揮していった。娯楽作品である映画に芸術性を付与した点において、その影響力は大きかったという。第3章「越境する人」では、京都・太秦の東映京都撮影所が所蔵する衣裳が一挙に展示。美術館でこれだけまとまった数が並ぶのは初めての機会だ。数多くの映画ポスターや関連資料も同時に展覧することで、展示に奥行きが生まれている。
また、衣裳によってアカデミー賞にノミネートされた際の賞状や、甲斐荘が役者と衣裳合わせをする様子の写真、衣裳の下絵などを一挙に展覧することで、映画人・甲斐荘楠音の活躍が際立つ秀逸な構成になっている。
本展の最後を飾るのは、《虹のかけ橋(七妍)》(1915~76)と未完の大作《畜生塚》(1915頃)だ。
《虹のかけ橋(七妍)》の制作年の長さからもわかる通り、甲斐荘は日本画から映画へと転身してもなお、絵画を描き続けていた。まさに人生をかけて描いた大作だと言える。
いっぽう横5.7メートル、八曲一隻におよぶ大作《畜生塚》(1915頃)は、その大部分が塗り残されたままだ。ミケランジェロなどに影響を受けたと思しき人物像は肉肉しく描かれており、「畜生塚」(豊臣秀吉が養子である秀次を自害させ、その幼児や妻、妾など約30人を処刑して三条河原に埋めた史実)から抱くイメージとはやや遠い。そうした表現とテーマのギャップが甲斐荘自身の中に芽生えたことが、同作が未完で終わった理由なのではないかと梶岡は話す。本作向かいに展示されている同名の草稿やスケッチなどと見比べてみることをおすすめしたい。
絵画と映画を越境しながら、両方の分野で活躍を見せた甲斐荘楠音。本展を契機に、その複雑かつ多面的な個性にさらに光が当たることだろう。