千田嘉博のお城探偵 だれもが歴史を体感できる施設を 香川県高松城・桜御門の復元
秀吉軍は、讃岐国(香川県)、伊予国(愛媛県)、阿波国(徳島県)の3方向から一斉に攻め込んだ。長宗我部氏の武士たちは各地で善戦したが秀吉軍の進撃をくい止められずに降伏。元親は土佐一国(高知県)だけを安堵(あんど)された。
1587(天正15)年に秀吉は、讃岐国を生駒親正に与えた。親正は秀吉に早くから仕えた武将だった。讃岐に入国した親正は、領国経営の拠点として翌年から高松築城に着手した。
高松城は香東(こうとう)川の三角州扇状地の端部にあって水に恵まれ、なにより城が直接港を押さえた戦略的要地だった。瀬戸内海の海運は、全国につながる海運ネットワークの大動脈で、親正は高松をネットワークに接続させることで、今に続く繁栄の基礎を確立した。しかし海に直接接して石垣の城を築くのは決して容易ではなかった。
軟弱な海沿いの土地に石垣を築いても安定しない。西洋的に自然に打ち勝つ固い基礎の上に石垣を積むのではなく、嵐をしなやかに受け流して耐える五重塔のように、胴木と呼ぶ軟らかな木の基礎の上に石垣を築くことで安定する石垣を、親正は実現した。高松城は戦国の技術革新の結晶といえる。城づくりの技術は、その後の治水や干拓の技術になって世の中を豊かにした。
さて高松城の最新の話題は、藩主の別邸・披雲閣の正門であった桜御門の立体復元が完成し、今年7月16日から一般公開し始めたことである。桜御門は第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったが、発掘調査や古写真などをもとによみがえった。私も現地を訪ねて、失われた櫓門が再び城内に建つ姿に深く感動した。
しかしその感動は長く続かなかった。高松市は桜御門2階の櫓を市民に広く公開し始めたのだが、櫓門2階を見学するために、外付けの階段を上り下りするようにしていた。この外付け階段は、史実にはなかったが、健常者が見学するために、わざわざ設置したものである。
だから健常者は櫓門内部を見学できるのだが、それだけでよいのだろうか。桜御門を訪ねて歴史を体感できる対象から、車いすの利用者が除外されていないだろうか。
高松城と同じように史跡の櫓門の立体復元を実施している石川県の金沢城では、復元したすべての櫓門にスロープやリフトを設けて誰もが内部を見学できるようにしている。
高松城は、もともと存在しなかった外付け階段を設置していながら、バリアフリー化ができなかったのはなぜなのか。史跡の復元建物だからできなかった、は言い訳にならない。金沢城から感じられた多様性を尊重する意識が、高松城からは感じられなかった。
高松市は天守の再建を目指すと聞く。だれもが歴史を体感できる施設にぜひしてほしい。(城郭考古学者)
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高松城 1588(天正16)年、生駒親正が築城。瀬戸内の水軍を監督するための水城として築かれた。生駒氏は4代で改易となり、1642(寛永19)年、松平頼重が入封。中四国の外様大名の押さえとして配置された。その後、月見櫓や、海から直接城内に入るための水手御門が設けられるなど機能強化が図られた。