富山湾に沈んだ江戸の港町#1 アナウンサーが“海底遺跡"証明のため潜水取材…不自然な岩を発見
そんな情報をキャッチして、取材班は陸・海・空から取材を開始。すると、海底からは謎の石垣が。
そして、かつての繁栄をうかがわせる存在が明らかになった。
海底遺跡の情報が寄せられたのは、富山市の港町・四方地区。
ダイビングが得意な吉村尚郎アナウンサーが地元で聞き込みを開始すると…
吉村尚郎アナウンサー:
沖合に江戸時代の遺跡があるってご存じですか?
住民:
ええ?そうなんですか?初めて聞きました
住民:
ここで生まれ育ったけど、聞いたことがない
海底遺跡はあまり知られていないのか?すると、漁師の男性が教えてくれた。
漁師:
昔は海岸線がもっと沖にあって、沖で水に潜ると沈んだ井戸が見えたそうです
「水中に沈んだ井戸」まさに、情報を裏付ける証言だ。
富山市の四方地区は、かつて西岩瀬と呼ばれ、北海道と上方を結ぶ北前船が入港する大きな港町だった。
地区で最も歴史がある寺、海禅寺を訪ねると、稲生隆信住職が意外な歴史を教えてくれた。
稲生隆信住職:
現在の海岸の沖合2kmぐらいに1300年程前、最初のお寺ができたと言われています。もちろん、そこは陸地だったんですよ
寺に伝わる絵図には、最初の寺の周囲に建物が並ぶ様子が描かれているが、すでに海に沈んだと言う。海禅寺は過去に3度場所を移したが、2カ所目も現在は海だというのだ。
稲生隆信住職:
寺のまわりにはかつて村があったが、今は沈んでしまっています。柱か何かが残っていて、探せばあるかもしれないですね
水中に見えたという井戸、そして今は沈んでしまったお寺の痕跡を見つける事はできるのか?
吉村アナは潜水取材を開始した。
捜索範囲は、ひとまず海岸から700m沖合まで。潜ってみると、そこは平らな砂地が広がっている。ほとんど地形の変化は見られない。漁師の話にあった「水中の井戸」も、もう砂に覆われてしまったのだろうか。
なぜ、海禅寺をはじめ、かつての集落は海の底に消えてしまったのか。そのカギは神通川の存在。神通川は飛騨山脈を源に、富山平野を流れ、富山湾へと至るが、その河口は室町時代頃は現在の四方地区付近にあった。川は多くの土砂を河口もたらす。四方沖には土砂が堆積し、広い土地があったと考えられる。そこに人々の暮らす集落が生まれていたようだ。
地質学が専門の富山大学の立石良准教授は、四方沖の等深線が広く等間隔に空いている点を示しながら、「かなり広い平らな土地だったのではと推測できる」と指摘する。
状況が変わったのは、江戸時代以降だ。暴れ川だった神通川の治水事業で河口は徐々に東に移された。
新しい土砂が供給されなくなった四方の集落は波の浸食をうけ、徐々に海岸線は削られていったと考えられている。
一方、潜水取材をする吉村アナは海底で、砂地の中にぽつんと海藻が固まっている場所を見つけていた。
海藻の下には岩が見える。海底は砂地が広がる。少し周囲の砂を除けてみると、80cm四方くらいだろうか。同じような大きさの岩がいくつかある。岩には、まるで削られたかのように平らな面がある。明らかに不自然と感じる平らな面だ。
さらに注意深く表面をなぞってみると、四角くえぐったような部分もある。まるで、切り欠きをつけたよう。これは人工的に作られたものではないか?
四方沖の調査を行った経験を持つ、富山市埋蔵文化財センターの古川知明元所長に映像を確認してもらうと、「面が平たく、四角い石とわかる。石垣の石材ということでほぼ間違いない」と言う。岩の質は主に砂岩で、富山城や高岡城の城壁に使われたものと同じだという。
海底で見つけた岩は、かつて港で護岸のために積まれていた石垣である可能性が高い事がわかった。やはり、海底にかつての街は沈んでいたのだ。
四方沖の海底遺跡の調査を続ける取材班。すると、「言い伝え」とされてきた歴史的遺産の存在や、新たな発見が明らかになった。
(富山テレビ)